↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/27

14話:Impact Line 〜掌に刻む覚悟 〜

戦艦チュラクシスの艦橋。

視界に広がる夜の砂漠を見下ろしながら、俺はギリッと奥歯を強く噛み締めた。

いつものように、腹の底から笑い飛ばす余裕なんて全くない。

俺の視線の先、砂煙の向こう側で死闘を繰り広げているヒカリ坊の言葉が、まだ耳の奥にへばりついていた。


『ルベルジンカミシモでどちらか一体を引きつける』


通信機越しに聞いたその提案に、俺は強い憤りを感じた。

ヒカリ坊は、自分の身を危険に晒すことに躊躇いがなさすぎる。

記憶がなく、過去が空っぽだからといって、自分の命まで安いものだと勘違いしているんじゃないか。

あいつはうちのアヴェン5だ。

アヴェントゥラの大切なクルーだ。

その命を、ただの使い捨ての囮のように扱うことなど絶対に許せなかった。

だからこそ、俺は即座にその提案を却下したのだ。


だが、戦場の現実は無情だった。

俺の意図とは裏腹に、もう一体のリノセロスがヒカリ坊の機体へ猛烈な速度で突進した。

奇しくも、ヒカリ坊が自ら名乗り出た危険な囮の作戦が、最悪の形で実現してしまったのだ。


俺はコンソールの手すりを、金属が軋むほど強く握りしめる。

本来の作戦手順は違った。

このチュラクシスを安全な高度から採掘場へ接近させ、まずは八十九人分の食料と物資を投下する。

彼らの餓死の危険を完全に排除してから、次の迎撃作戦へ移行する予定だったのだ。

だが、今の状況でそれを強行すれば、敵から分断されたヒカリ坊は確実に命を落とす。


頭の中で、冷酷な天秤が揺れていた。

採掘場の底で救いを待つ八十九人の命。

そして、目の前の砂漠で死線に立つ、可愛い三人のクルーの命。

指揮官として、どちらを優先すべきか。

多くの命を救うためなら、少数の犠牲を切り捨てるのが優秀なプロの判断なのかもしれない。


だが、俺はそんな立派な人間じゃなかった。

人としても、指揮官としても未熟だと思い知らされる。

俺は一瞬の迷いの後、天秤を力ずくで叩き壊した。

見ず知らずの八十九人よりも、今ここで命を張ってくれている三人の命を優先する。

そして、八十九人も必ず救い出す。

それが、俺の出した答えだ。


「七十秒持たせろ。ヒカリ坊」


俺は通信機に向かって、血を吐くような思いでそう叫んでいた。

チュラクシスの巨大なエンジンが唸りを上げる。

ヒカリ坊を救い出し、あのバケモノを確実に引き剥がすための戦術軌道へ艦を進める。


かなり向こうに、黒い装甲のルベルジンカミシモが見えてきた。

巨大なリノセロスの角による突進を、見事に大剣で受け流している。

昨日の地獄の特訓で俺が教え込んだ動きそのものだ。

俺は小さく息を吐き出し、コンソールのタイマーに目を落とした。


俺が七十秒持たせろと通信を切ってから、ちょうど二十九秒が経過していた。


ーーーーーーー


俺はコンソールに両手をつき、食い入るように画面を視認する。


ヒカリ坊の動きを見て「よくやっている」と、 口角が自然と上がりそうになる。

だが、そんな風に一安心しているような時間は一秒もなかった。


レーダーに視線を落とし、俺は短く舌打ちをする。

位置関係がひどくまずい。 降下してくるこのチュラクシスと、地上にいるヒカリ坊のルベルジンカミシモ。

その二つの点の真ん中に、巨大なリノセロスが陣取ってしまっている。

このままでは、次の作戦行動において、ヒカリ坊を巻き込む危険性があるのだ。


俺は即座に通信パネルの赤いスイッチを力強く押し込んだ。


「ヒカリ坊。ルベルジンとリノセロスの位置を入れ替えろ」


短く、明確な指示を飛ばす。


「了解した」


通信機から、ヒカリ坊の飾らない真っ直ぐな声が返ってきた。

たった一人で死線に立っているとは思えないほどの、とても軽い返事だ。

だが、その言葉の響きに一切の迷いはなかった。


モニターの中で、バケモノが再び怒り狂った咆哮を上げる。

凄まじい地響きと共に、圧倒的な質量がルベルジンカミシモへ向かって猛スピードで突進した。


今度は受け止める動きではない。

ヒカリ坊はコクピットの足元操作で、ペダルを巧みに踏み換えたはずだ。

機体の脚部が砂を蹴り、強烈な推進力を正面衝突の軌道から一気に横方向へ逃がす。

同時に、両手の操縦桿を素早く手前に引き絞った。

ルベルジンカミシモの太い腕が滑らかに動き、構えた大剣の腹で突進の勢いをそのまま後方へと受け流す。


迫り来る巨体を紙一重で躱し、黒い機体が夜の砂漠を滑るようにターンした。

砂煙が夜風に流されていく。

視界が晴れた直後、リノセロスの正面位置に、ルベルジンカミシモがピタリと陣取っていた。 完璧な位置の入れ替えだ。


うまい切り返しだ。

俺は心の中で、その見事な機体操縦を素直に褒め称えた。

艦橋の端にあるタイマーへ視線を移す。

七十秒持たせろと指示を出したあの通信から、現在四十八秒が経過していたところだ。


ーーーーーーーーー


チュラクシスの艦橋の床から、エンジンの限界駆動を示す激しい振動が足の裏に伝わってくる。

俺は艦長席から身を乗り出し、メインモニターを力強く睨みつけた。

遅い。

うちの船の最大船速は、こんなにも遅かったのか。

頭の中でチリチリと焦燥感が燃え上がり、嫌な汗が額を伝って分厚い胸板へと落ちていく。


眼下の砂漠では、ヒカリ坊のルベルジンカミシモがリノセロスと完璧に位置を入れ替えていた。

だが、あの巨大なバケモノがすぐに次の突進の体勢に入るのは明白だ。 ヒカリ坊を逃がすための決定的な隙を作らなければならない。


俺は通信パネルから手を離し、手元にある火器管制のコンソールへ両手を伸ばした。

主砲のロックを解除しようとして、すぐにその手を止める。

チュラクシスの主砲を一発お見舞いできれば、あのバケモノを確実に沈められるはずだ。

だが、主砲はエネルギーのチャージに致命的なほど時間がかかる。

何より、巨大な船体そのものの射線軸を地上の標的に合わせる余裕も技術も、今の俺は持ち合わせていなかった。


俺は舌打ちをし、両手で小型砲門の射撃用操縦桿をガシッと力強く握りしめた。

足元の旋回ペダルに両足を乗せ、砲塔の向きをマニュアル操作で強引に動かす。

モニター上の照準器が、砂漠で唸りを上げるリノセロスの巨体へ重なった。


火器管制の赤いランプが点灯する。

小型砲門の射程距離に、ようやく敵を捉えたのだ。

コンソールの端にあるタイマーへ視線を走らせる。

ヒカリ坊に七十秒持たせろと指示を出してから、現在六十四秒が経過していたところだ。


「ハハッ。約束の時間はきっちり守る男だぜ、俺は」


乾いた笑いを一つこぼし、俺は操縦桿の引き金を思い切り引き絞った。


ズドドドドッ。


艦橋全体が、連続する激しい発射の反動で大きく揺れる。

チュラクシスの船体から、小型砲門の青白いビームが夜の砂漠へ向けて一斉に放たれた。

高出力の光学兵器が空気を焼き切る匂いが、空調を通して微かに漂ってくる。

光の雨が、一直線に地上へと降り注いだ。


だが、俺の射撃は驚くほど甘かった。 ビームはリノセロスの分厚い装甲をわずかに捉え、残りは周囲の砂漠へ次々と突き刺さる。

高熱で砂が爆発し、ガラス状に溶けた赤い破片が夜空に撒き散らされた。


巨大なリノセロスが、頭上からの突然の光に驚いて身を翻した。

バケモノもこちらの砲撃を警戒し、砂を蹴って大きく回避行動をとる。

俺は操縦桿を振ってビームの射線を必死に追いかけさせた。


全く当たらない。

笑えるほどに、見事に外れ続けている。

だが、それで十分だった。

光の弾幕が砂漠に分厚い壁を作り出している。

あのバケモノがこれ以上、ヒカリ坊のルベルジンカミシモへ近づくことは物理的に不可能になっていた。


モニターの中で、砂煙とビームの閃光から逃れるようにリノセロスが大きく後退していく。


「まったく」


俺は操縦桿から片手を離し、額に滲んだ汗を乱暴に拭い取った。

自分の射撃の下手さに呆れて、思わず苦笑いが漏れる。

相棒やラキ坊は、よくもまぁこんな激しく動く戦場で、あんなに繊細な射撃を正確に当てられるもんだ。

仲間の腕前に少しだけ感心しながら、俺はヒカリ坊の機体が安全圏へ離脱していくのをモニター越しにしっかりと確認した。


チュラクシスの艦橋は、絶え間ない小型砲門の発射の反動で激しく揺れ続けている。

俺は両足で床をしっかりと踏みしめ、コンソールの通信パネルを力強く叩いた。

三機の機体と繋がる全体通信の回線を開く。


「よく聞け、お前たち」


俺は腹の底から声を張り上げた。

砲撃の轟音に負けないよう、艦橋マイクへ向かって力強く叫ぶ。


「リノセロス一体は、チュラクシスのツァイトモーターが完全に焼き切れるまで、俺がここで確実に足止めしてやる。

お前たち三人は、あっちのデカいボス個体の討伐に専念しろ」


言い切った後、俺は少しだけ声のトーンを落とした。

ただの命令じゃない。

指揮官として、そして保護者として、死地へ向かうクルーの背中を強く叩くための言葉だ。


「シルヴィア。お前のその冷静な目と経験が頼りだ。あの不器用な若い二人を、上手く導いてやってくれ」


「任せてちょうだい」と、涼やかな声が通信の向こうで短く応じた。


「ラキ坊。口では文句ばかり言うが、お前の射撃の腕は俺が一番買っている。一番危ない橋を平気で渡れる度胸、存分に見せつけてこい」


「しゃあないな。おやっさんの期待には応えたるわ」と、ニヒルな笑い声が聞こえた。


「ヒカリ坊」


俺は最後に、真っ直ぐで無鉄砲な少年の名前を呼んだ。


「お前のその馬鹿みたいに真っ直ぐな突撃が、絶望的な陣形を救った。よくやった。

だが、もう囮なんて安い真似は二度とするな。自分の命を高く張って、絶対に生き残って勝て」


「了解した。クレティさん」


飾らない、力強い声が真っ直ぐに返ってきた。

三人の声に怯えは一切ない。

俺はハハハと豪快に笑い飛ばし、通信回線をバツンと切った。


艦橋に響くのは、警報の電子音と、床下から突き上げてくる巨大なエンジンの悲鳴だけだ。

俺の顔から笑みが消える。

操縦桿を握る両手は、汗でじっとりと濡れていた。 コンソールの端にあるゲージが、信じられない速度で急降下している。


ハッタリだ。 こんな無茶な全力斉射を続けていれば、エネルギーもすぐに底をつく。

それは俺が一番よくわかっていた。

ツァイトモーターを焼き切る覚悟があると言ったのは本心だが、物理的な限界はすぐそこまで迫っているのだ。


ここからは我慢比べだ。

あのバケモノが三人の戦場に戻らないよう、弾幕の壁でギリギリの時間を稼ぐ。

俺の役割はそれだけだ。

だが、ただ時間を稼ぐだけでこの絶望的な状況が好転するとは思えない。

大きな賭けに出る必要があった。


俺は艦内通信スイッチを弾き、艦の格納庫への回線を開いた。


「ユミィ。聞こえるか」


通信機の奥から、金属を打ち付ける甲高い作業音が響いてきた。


「はい、クレティさん。聞こえます」


ユミィの実直で真剣な声が返ってくる。

息が少し弾んでいる。 絶え間なく作業を続けている証拠だ。


「状況はどうだ。ウィリディチの修理はどこまで進んでる」


俺は単刀直入に尋ねた。 格納庫で眠っていた、この船の最後の切り札だ。

修理中の機体を、ユミィが一人で必死に組み上げている。


「今、最後から五つ目のパーツを組み込んでいるところです」


ユミィの声に、焦りの色は隠せなかった。

スパナか何かを置く重い音が通信越しに響く。


「試運転も、最終調整も全くできていません。」


俺は小さく息を吐き出した。


「ハハッ。最高だな」


俺の口から、自然と笑みがこぼれた。

不利な状況であればあるほど、賭け金は大きく跳ね上がる。

俺は操縦桿の引き金を再び力強く引き絞り、迫り来るリノセロスへの弾幕をはり続けた。


俺は艦橋の揺れに耐えながら、目の前のモニターから視線を外さずに口を開く。


「残りは組み込みだけなんだな。ということは、後はクレーンのオートモードで行けるのか」


砲撃の轟音が鳴り響く中、俺の問いかけは少しだけ声が大きくなってしまう。

すぐさま、ユミィの真剣な声が返ってきた。


「はい。組み込み自体はオートモードで可能です。でも、最終確認と試運転には私がここにいないとだめです」


彼女の言うことは正しい。

マニュアル通り、いや、メカニックとしての常識だ。

だが、俺は一秒も考えることなく即座に次の指示を出した。


「艦橋に上がってきてくれ」


通信機越しに、ユミィが息を呑む気配がわかった。

彼女の戸惑いを切り捨てるように、俺はハハハと短く笑い声をあげる。


「ユミィが調整したんだ。最終確認も試運転も必要ない」


それだけを言い残し、俺は格納庫への通信回線を切った。

再び両手で操縦桿を握り直し、迫り来る巨大なリノセロスへ向けて小型砲門の火力を叩きつける。

あとは、あの真面目なメカニックが俺の意図をどう受け取るかだ。


ーーーーーーーーーー


チュラクシスの格納庫。

広い空間に、通信が切れた後の無機質な電子音だけが響いていた。

私は手に持っていた油まみれのスパナを、無意識のうちに強く握りしめた。


クレティさんの言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインしている。

最終確認は必要ない。 試運転も必要ない。

私が調整したから。


鼓動がドクン、ドクンと激しく打つのがわかった。

冷たい空調が効いているはずの格納庫で、顔がカッと熱くなる。

胸の奥底から、信じられないほどの熱い塊が込み上げてきた。


私はゆっくりと顔を上げる。

目の前には、分厚い緑色の装甲を持つ巨人、ウィリディチがそびえ立っていた。

修理を待ち眠っていたこの機体を、たった一人で徹夜で組み上げてきた。

冷たい鉄の匂い。 潤滑油の鼻を突く匂い。

それが今の私には、世界で一番甘くて心地よい香りに感じられた。


メカニックにとって、最終確認を飛ばすことは本来ならあり得ない。

パイロットの命を預かる機体だ。

ネジ一本の緩みが、そのまま死に直結する。

だからこそ、私たちは何度もテストを繰り返し、安全を保証する。


でも、クレティさんはそれをしなくていいと言った。

時間が惜しいからじゃない。

私が組み上げた機体なら、絶対に動く。 絶対に壊れない。

そう、完全に信じ切ってくれているのだ。


指先が微かに震えていた。 怖さじゃない。

抑えきれないほどの、強烈な喜びだ。

ただの裏方じゃない。

ただの機械いじりが好きな子供じゃない。

チュラクシスの、いやアヴェントゥラの命運を、私に完全に託してくれた。

その重すぎる信頼が、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


「……っ」


声にならない熱い息が口から漏れた。

視界が少しだけ滲む。 私は袖で乱暴に目元を拭い、目の前にある大型コンソールへ向き直った。


キーボードを叩く手は、もう震えていなかった。

オートモードのシークエンスを力強く打ち込む。


ガシャンッ。


頭上にある巨大なクレーンが、重々しい音を立てて動き始めた。

残りのパーツが、プログラムされた通りに正確な位置へと運ばれていく。

火花が散り、アームが自動で作業を開始した。 ウィリディチの瞳に、起動光が灯るカウントダウンだ。


それを見届けるより早く、私は背を向けた。

鉄板の床を蹴り、全力で走り出す。 重い靴が床を叩く音が、格納庫中に響き渡る。


自然と、口角が吊り上がっていた。

笑みがこぼれて、どうしても顔がにやけてしまう。

胸の中で暴れ回るような大きな喜びが、全身の細胞を弾ませていた。


早く行かなくちゃ。

艦橋で待つ、クレティさんのところへ。

この最高の機体を、最高の状態で戦場へ送り出すために。

私はエレベーターの呼び出しボタンを、祈るような気持ちで力強く押し込んだ。


ーーーーーーーーーー


チュラクシスの艦内を貫く連絡通路を、私は息を切らして走っていた。

壁際の非常灯が赤く点滅し、艦全体がエンジンの限界駆動による激しい振動に揺れていた。


少し前まで胸を満たしていた、あの飛び上がるような喜び。 自分の整備の腕を完全に信じてもらったという甘い感情が、まだ微かに顔を熱くしている。

私は走りながら、両手で自分の両頬をパンッと強く叩いた。


痛みが走り、視界がクリアになる。

今はあんな言葉をもらって浮かれている場合じゃない。

外の砂漠では、ヒカリとラキとシルビーさんが命を懸けて戦っているのだ。

クレティさんが私を艦橋へ呼んだ意味。

それは単なる呼び出しではなく、戦況を左右する重大な役割の交代に他ならない。

私は表情を引き締め、さらに足の回転を速めた。


通路の角を曲がった直後だ。

前方から、見慣れた巨大な体躯がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。

クレティさんだ。

艦橋から下りてきて、私がウィリディチを組み上げた格納庫へ向かおうとしている。

私とクレティさんは、狭い連絡通路の中で互いに真っ直ぐ向かい合う形になった。


すれ違うまで、あと数歩。 クレティさんは走りを全く緩めない。

ただ、私とすれ違う直前、その分厚い右手を頭の横へ軽く持ち上げた。


「よっ」というような、いつもの軽い挨拶だろうか。

私は咄嗟にそう思い、自分も会釈をしようと首を傾けかけた。

いや、違う。


振り上げられた巨大な手のひらは、私に向かって真っ直ぐに開かれていた。

その腕には力が入っており、ただの挨拶の形ではない。

私は一瞬でその意図を理解した。

走り抜ける勢いを一切殺さず、私は油まみれの自分の右手を力いっぱい高く掲げた。


パァァァンッ。


狭い金属の通路に、肉と肉が激しくぶつかり合う破裂音が鼓膜を打った。

すれ違いざまの、全力のハイタッチだ。


私の小さな手と、クレティさんの岩のように硬く分厚い手が、空中で完璧に噛み合った。

手首から肩にかけて、ビリビリと痺れるような強烈な衝撃が走り抜ける。

痛い。

掌の皮が弾け飛ぶかと思うほどの、容赦のない力強さだった。


でも、その痛みと一緒に、クレティさんの異常なほどの体温が私の手に流れ込んできた。

汗と、微かな硝煙の匂いが鼻をかすめる。

言葉は一言もなかった。

すれ違ったのはほんの一瞬だ。 お互いに足をとめることなく、視線すら交わさずに背中合わせに走り抜けた。


それでも、あの強烈な痛みと熱が、私に全てを伝えてくれた。

あとは任せたぞ、という無言の強烈な檄だ。

痛みを帯びた右手を強く握り込み、私は絶対にこの期待を裏切らないと心の中で叫んだ。


通路を抜け、艦橋への重い防弾扉のロックを解除する。

プシュゥという空気の抜ける音と共に扉が開き、焦げた配線とオゾンの匂いがツンと鼻を突いた。


無人になった艦橋は、先ほどまでの激しい手動砲撃の余韻で異常な熱気に包まれている。

私は迷うことなく、艦橋の中央にある一番大きな座席へ向かった。

先ほどまでクレティさんが座っていた、艦長席だ。

その横にある、今オートモード射撃になっている火器管制と通信コンソールを素早く自分の手元へ引き寄せる。


本来なら、ここには彼がいるべきなのだ。

でも今、このチュラクシスの艦橋を任されているのは、メカニックである私だった。

私がこの船の艦長代理だ。


メインモニターには、砂漠で巨大な獣と死闘を繰り広げるソルダールフレームの姿が映し出されている。

ヒカリ。 ラキ。 シルビーさん。

そしてこれから、飛び出していくクレティさん。


手元のパネルに表示された三つの機体信号を見つめる。

息が詰まりそうになった。

私は今、大切な仲間の命を完全に預かっているのだ。

私がモニターから目を離せば、私が一瞬でも判断を間違えれば、彼らは死ぬ。


胃の腑が鉛のように重くなり、手のひらにじっとりと冷たい汗が滲み出してきた。

これが、いつも彼が背負っている重圧。

私は震えそうになる膝に力を込め、靴の底で艦橋の床を力強く踏みしめる。


メインモニターの照準器を強く睨みつける。

両手で握り込んだ火器管制の操縦桿から、射撃の反動がビリビリと骨にまで伝わってきた。

チュラクシスの船体から放たれる青白いビームが、砂漠の夜を切り裂いていく。

でも、わかっている。 この小型砲門の火力だけでは、あの分厚い装甲を持つ巨大なリノセロスを完全に落としきることなんて到底できない。

装甲の表面を焦がし、ガラス状に溶けた砂を周囲に撒き散らすだけで精一杯だ。


だったら、主砲で!

私は頭の中で即座にその選択肢を捨て去った。

主砲のエネルギーチャージには致命的な時間がかかる。 それに、砂漠を縦横無尽に走り回るあの巨大な標的に、船体の軸を合わせて主砲を叩き込む。

そんな神業みたいな技術、ただのメカニックである私にあるわけがないのだ。


小型砲門による弾幕で、ヒカリたちの戦場からこの個体を完全に分断する。

そして、クレティさんがウィリディチで出撃するまでの時間を全力で稼ぐ。

それが正解だ。

経験豊富なクレティさんが導き出した結論と、私の考えは完全に一致していた。


右足のペダルを踏み込み、砲塔の旋回角を微調整する。

光の雨を降らせ続ける。 その時だった。


砂煙の奥で、鬱陶しい弾幕に苛立ったリノセロスの動きが変わった。

巨大な体を大きく捻り、背を向けるような姿勢をとる。

太く分厚い装甲に覆われた巨大な尻尾が、ゆっくりと空へ持ち上がった。

尻尾の先端にある大型砲門が、一直線にこのチュラクシスの艦橋へ向けられる。

砲口の奥で、不気味な赤い光が急激に膨れ上がった。


撃ち返してくる。

私は息を呑み、即座に両手の操縦桿を動かした。

リノセロスの尻尾がこちらを向いたその瞬間。

私はすべての小型砲門の射線軸を、一点に集中させた。

狙うのは、あの赤い光が収束している尻尾の砲口だ。

敵が発射する数秒前。

私は手元のトリガーを限界まで引き絞った。


シュドッ。


チュラクシスから放たれる青白いビームが、今度は扇状ではなく、一本の太い光の束となって夜の砂漠へ降り注ぐ。

直後、リノセロスの尻尾から極太の赤い熱線が放たれた。


夜空の真ん中で、青と赤の光が激しく衝突する。 強烈な閃光が艦橋を真っ白に染め上げた。

網膜が焼けるような痛みに、私は思わず目を細める。

空気を焼き尽くす凄まじい爆発音が、肌をビリビリと震わせた。


衝撃波がチュラクシスの船体を激しく殴りつける。

私は艦長席から振り落とされそうになりながらも、ペダルを踏む両足に力を込めて必死に踏み留まった。

艦橋内に火花が散り、焦げたオゾンの匂いと熱風が充満する。


メインモニターの視界が徐々に回復してきた。

煙の向こう側で、リノセロスの赤い熱線が大きく軌道を逸らし、チュラクシスの右舷の遥か遠くの夜空を切り裂いていくのが見えた。

私が集中させたビームの弾幕が、砲口の直前で敵のビームと衝突し、その巨大な威力を強引に相殺して軌道を歪ませたのだ。

なんとか直撃を避けることができた。


大きく息を吐き出す。 汗で張り付いた前髪を、手の甲で乱暴に拭い取った。


それぞれが、自分にできることを全力でする。

ヒカリは真っ直ぐに敵の懐へ飛び込み、

ラキは正確な射撃で隙を作り、

シルビーさんは冷静に戦場を支配する。

クレティさんは最終調整できていないの機体を信じて出撃し、

私は艦橋でこの船を守り抜く。


誰かがすべてを背負う必要なんてない。

自分の持ち場で、持てる力を限界まで絞り尽くす。

それが、私たちアヴェントゥラのスタイルなのだ。


メカニックとして、私のやるべきことは全てやり切った。

ウィリディチは絶対に動く。

そして今は、このチュラクシスの艦長代理として、やるべきことを最後までやり通すだけだ。


私は操縦桿を握る両手に再び力を込める。

モニターの向こう側で、砂煙を上げて立ち上がる巨大な影を再び見据えた。


恐怖はもうない。

私の後ろには、最高の仲間たちがいる。

夜明け前の冷たい砂漠に、決意の光を放つ砲撃の音が、誇り高く鳴り響き続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。