不気味なごちそうと、甘い罠
「ぐうぅうううううううぅ…………」
私の体から、まったく可愛らしくない重低音が響き渡った。
両手でお腹を押さえてしゃがみ込む。王都の公爵令嬢として育てられていた頃なら、恥ずかしさのあまりそのまま地面に穴を掘って埋まりたくなっただろう。けれど、今の私は前世の記憶を持ったただの生身の人間だ。最後にまともな食事をとったのがいつだったか思い出せないほど、私の胃袋はペコペコに減り切っていた。
「……あはは。ダメね、人間って。家が見つかって安心したら、急に空腹が襲ってきたわ」
力なく笑う私を、巨大な植物のジェントルは巨大な蕾を傾けて見下ろした。
『おやおや、それは大変だ。人間の体は食べ物を補給しなければ数日で動かなくなってしまうのでしょう? せっかく良いおうちが見つかったのですから、倒れられては困ります。……よし、ではお嬢さん。この森で安全に食べられる植物と、絶対に口にしてはいけない危険な植物について、私が教えて差し上げましょう』
「本当!? ありがとう、ジェントル! あなたがいてくれて本当に良かったわ!」
私は救われた心地で叫んだ。この狂気の森で自力で食料を探すなんて、ロシアンルーレットどころの騒ぎではない。案内役がいるのは何よりも心強かった。
『ふふ、お安い御用ですよ。では、私についてきてください。……ほんの数十歩先ですから』
ジェントルはズシン、ズシンと重い足音を立てて歩き出した。私はその大きな背中を慌てて追いかける。
本当に数十歩ほど進んだところで、ジェントルは一本の樹木の前に佇んだ。
『まずはこれです。これが飲めますよ』
ジェントルが太い触手(蔓)の先端で指し示したのは、これまで見てきた木々の中でも一際異彩を放つ植物だった。
幹や枝全体が、まるで街頭のように柔らかな黄色い光を放っている。そしてその枝からは、前世の地球で図鑑で見た『オオオニバス』のような、巨大で分厚い円形の葉っぱが幾重にも生い茂っていた。大きなものは大人一人がすっぽり乗れそうなほど広い。
私はゴクリと唾を飲み込みながら、木に近づいた。
「この木から……飲み物が取れるの?」
『ええ。その葉の真ん中に溜まっている液体を召し上がるといいでしょう。一番下の葉なら、お嬢さんの背丈でも届くはずです』
言われた通り、かろうじて手が届きそうな一番低い位置にある巨大な葉っぱの中を覗き込んだ。
「……っ!?」
次の瞬間、私は思わず数歩後ずさりした。
(う、嘘でしょ……!? これを飲めっていうの……!?)
葉っぱの凹みに溜まっていたのは、ドロリとした濃い緑色の液体だった。しかも、ただ溜まっているだけではない。底からゆっくりと「ブク……ブク……」と、不気味な泡が立ち上り、弾けているのだ。
さらに、鼻を突くのはツンとした酸っぱい刺激臭。前世でいうところの、生ゴミのバケツか強酸性の薬品を突きつけられたかのような、生理的な拒絶反応を引き起こす匂いだった。
「じ、ジェントル……? これ、どう見ても魔女の毒薬か、工場排水にしか見えないのだけど……。本当に飲めるの? 胃に穴が空いたりしない?」
『ふふふ、見た目や匂いに惑わされてはいけませんよ、お嬢さん。それは【翡翠の溜め葉】と呼ばれる植物です。さあ、恐れずに両手ですくって飲んでごらんなさい』
優しく穏やかな老紳士の声。だが、目の前にあるのは緑色のブクブク毒液だ。
(怖い……めちゃくちゃ怖い! でも、ジェントルは私を殺す理由なんてないし、さっきも蜜で傷を治してくれた。彼は信用できるはず……それに、もうお腹が空きすぎて目が眩みそう……!)
空腹による切実な本能と、ジェントルへの信頼。その二つが、恐怖心をかろうじて上回った。
私は意を決し、震える両手を緑のドロドロ液へと差し入れた。
(ひっ……手が溶ける! 強酸で骨まで溶けちゃったらどうしよう!)
ギョッと目を瞑った私だったが――予想していた激痛は、一向に訪れなかった。
「……あら?」
恐る恐る目を開ける。
手に伝わってきたのは、皮膚を焼く熱さでも、痛痛しい刺激でもなかった。まるで最高級のシルクの温湯に手を浸しているかのような、驚くほど滑らかで、柔らかく、心地よい感触だったのだ。手についた傷や荒れが、一瞬で癒やされていくような感覚すらある。
さらに驚くべきことが起きた。
私が両手でその液体をすくい取った瞬間、不気味に沸き立っていた「ブクブク」という泡が一瞬で消え去り、ドロドロだった緑の濁りが嘘のようにスーッと透き通っていったのだ。
手のひらに残ったのは、まるで最高級のエメラルドを溶かし込んだかのように美しく輝く、澄み切った清涼なエメラルドグリーンのスープだった。あの鼻を刺す刺激臭も完全に消え、代わりにハーブと温かなミルクが合わさったような、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
(すご……! 泡が消えて、色が変わった……!)
私は固唾を飲み込み、手のひらのエメラルドグリーンの液体を、意を決して口へと運んだ。
トロリとした液体の触感が、唇を滑り落ちる。
「――――――っ!!」
私の両目が、カッと見開かれた。
う、うまい……っ!! 何これ、めちゃくちゃ美味しい……!!
口の中に広がったのは、前世の「枝豆とジャガイモの濃厚クリームポタージュ」の味だった。
じっくりと時間をかけて煮込まれた野菜の濃厚なコクと旨味、そこに芳醇なバターと生クリームのようなまろやかさが重なり合い、絶妙な塩加減が疲れた体に染み渡っていく。咽喉を通るたびに、お腹の底からじんわりと温かな活力が湧いてくるのが分かった。
「美味しい――――っ!!」
私は思わず、森の静寂を破るほどの叫び声を上げていた。
恥ずかしさも忘れ、残った液体を次々すくって飲む。新しくすくい取ってはゴクゴクと飲み干した。お腹の底から幸福感が満ちてくる。
「何これ、凄すぎるわジェントル! 見た目はあんなに恐ろしいのに、味は完璧なポタージュじゃない! なんでこんな見た目と匂いはあんなに凶悪なの?」
満足感に頬を緩めながら尋ねると、ジェントルは『ふむ』と説明を始めた。
『あれはですね、葉の中で栄養分を熟成・発酵させているからなのです。余分な物を取り除く過程で、あの刺激臭が出て、不気味な泡は途中で鳥や獣に横取りされないための、我々側の「防衛策」ですよ。空気に触れて初めて、本来の姿に変わる仕組みになっているのです』
そうこう聞いている間に、すぐに液体の笠が戻っていた。
「なるほど……! 泥棒除けのカモフラージュなのね。賢いわね……」
前世の知識(発酵食品の概念)も手伝って、私は深く感心した。見た目に騙されてはいけないというのは、この森の鉄則なのだと学んだ。
『さて、水分とスープが摂れたところで、次はお腹にたまる「主食」にしましょうか。……ほら、あそこの地面を見て』
ジェントルが示す方角へ、私はルンルン気分で向かった。さっきのポタージュがあまりにも絶品……いやおかしなほどの幸福感だったため、私の警戒心は完全に緩みきっていた。「次は何のごちそうなの?」と、完全にピクニック気分である。
だが、指された地面の前に立った瞬間、私の足がピタリと止まった。
「……えっと、ジェントル? これ……よね?」




