油断大敵
ジェントルは巨大な蕾を重々しく振った。
『知性が低いがゆえに、彼らは自身が持つ魔力を「制御」することができません。もし人のような異物が近づき、好奇心や驚きで彼らの感情がほんの少しでも高ぶると……溢れ出た魔力を抑えきれなくなり、その場で体が膨張させられ、破裂します』
「は……?」
私の思考が完全に停止した。
『ただ、嬉しくなったり驚いたりして、魔法を撒き散らすだけですよ』
「……っ!?」
戦慄が、全身の毛穴という毛穴から吹き出した。
悪意がないからこそタチが悪い! 好奇心で近寄って「なでなで」しようとした瞬間、私は体ごとなぎ払われるのだ。なんという最悪な地雷生物。
「狂ってる……この森、やっぱり完全に狂ってるわ……っ!」
メルヘンだなんだと歓喜していた一分前の自分を殴り倒したい。
折り紙の妖精も、追いかけっこをするキノコも、全部いつ爆発させてくるかも分からない狂気の生態系の一部なのだと悟った。
私は恐怖のあまりガタガタと全身を激しく身震いさせた。足が震えて上手く歩けない。目の前のステラキャットが起き上がらないよう、息を殺しながら一歩一歩、後ずさりするように慎重に進む。
(落ち着いて、落ち着いて私……。ジェントルの後ろについていけば大丈夫。彼の後ろなら……)
ガタガタと怯えながら、周囲を執拗に警戒して進んでいたその時。
ドゴンッ!!!
「あいたーーーっ!?」
激しい衝撃が私の額を襲った。
あまりの硬さに目から火花が散り、私は尻餅をついてその場にひっくり返った。
「うう……痛い……! なに、……!?」
痛むおでこを押さえながら見上げると、そこにあったのは岩ではなく、急停止していたジェントルの巨大な『根っこ(足)』だった。
私がステラキャットの恐怖でガタガタと震えている間に、先頭を歩いていたジェントルが立ち止まっていたのだ。それに気づかず、私は彼の鋼鉄よりも硬い足元に、おでこから激突してしまったらしい。
『おやおや、大丈夫ですかお嬢さん。……目的地に到着しましたよ』
ジェントルが呑気な声で振り返る。
だが、私の顔を見るなり、彼の声が『あっ』と焦ったように上ずった。
『おでこから出血していますよ』
「分かってる! 助けて!」
言われて手指を離すと、ぬっと温かい液体が視界を遮った。
ダラダラと垂れてくる真っ赤な血。ジェントルの外皮は、先ほど王国の騎士たちの攻撃を寸分違わず跳ね返したほどの『魔力障壁』で覆われている。そこに生身の平凡な人間が頭から突っ込んだのだから、無傷で済むはずがなかった。
「痛い痛い痛い!」
ジェントルは巨大な両手をバタつかせた。
『ああ、申し訳ありません。私が急に立ち止まったばかりに。今すぐ治療します、動かないでくださいな』
「え、あ、はい――」
言いかけた瞬間。
ボシャアアアアアアッ!!!
「ぶはぁっ!?? ぐ、ごぼっ、げほっ!?」
頭上から、信じられない量の「粘着性のある液体」が大量に降り注いできた。
滝のような勢いで頭から液体を被せられ、私はその場に崩れ落ちた。目、鼻、口、耳、ドレスの隙間に至るまで、ドロリとした甘い液体で満たされる。
一瞬、溺れかけた。呼吸ができずに死ぬかと思った。
「ぷはっ! げほっ、えぐっ……! な、なにこれぇええ!?」
髪からドロドロと滴り落ちる液体を拭いながら、私は半泣きで叫んだ。
口の中に入ってきた液体を舐めてみる。
ペロ……「これは蜂蜜……」
それは、先ほどガルムたちの怪我を治した時に使った、あの『ジェントルの透明な蜜』だった。
ただし、量が違いすぎる。ガルムたちには布に少量染み込ませて塗っただけだったのに、今の私は樽数本分レベルの蜜を全身からかぶっていた。全身蜜まみれの、歩くスイーツ状態である。
すると、蜜をかぶった瞬間に、おでこの激痛がスッと引いていくのが分かった。
ぬぐった手で傷口に触れてみるが、皮膚はすでに滑らかで、切り傷も青痣も完全に消え去っていた。どころか、長旅で荒れ果てていたお肌まで、前世のデパコス高級美容液を十本塗りたくったかのようにツヤツヤのプルプルになっている。
『ふぅ、よかった。傷は塞がりましたね』
しっとりとした様子で、ジェントルが胸(蕾)を撫で下ろした。
「傷は治ったけど……治ったけど、量が多すぎるわよ! 溺れて死ぬかと思ったわ!」
『申し訳ありません。お嬢さんが頭から血を流されたので。しかし、よく出血だけで済みましたね』
確かに、あのガルムたちの攻撃すら弾き返した固さなのだ。私がタンコブと出血程度で済んだのは、冷静に考えれば、神の奇跡以外の何物でもない。
「うーん……でも、なんでかしら。確かにすごく痛かったけど、骨まではいってないわ」
私は自分の手を握ったり開いたりしながら、首を捻った。
「そういえば私、生まれつき『植物と話せる能力』があるのよね。ゲーム内ではただの不吉な悪役令嬢のフレーバー設定だと思ってたけど……もしかして、植物の魔力に対する『植物耐性』みたいなものが、体に備わっているのかしら?」
『ほう……なるほど。それは大いにあり得ますね』
ジェントルは、私の言葉の意図を察して納得したように大きな葉っぱの手をポンと打った。
『我々の声を聴き、理解できるということは、お嬢さんの魂の波長が私たち植物と深く同調している証拠です。だからこそ、私の結界もあなたを「敵」として認識せず、威力が和らいだのでしょう。おまけに私の蜜の吸収率も、普通の人間の数倍早いようです』
(無駄な能力だと思ってたけど、この森で生き残るためには一番の最適能力だったのかもしれないわね)
泥と蜜でドロドロになったドレスを引っ張りながら、私は少しだけ自分の持っている力に自信を持った。少なくとも、この神の庭において、植物たちと会話ができることと、彼らの攻撃に対する耐性があることは、最大の生存フラグだ。
「……で、ジェントル。さっき『到着した』って言ってたけど、ここはどこなの?」
私は顔の蜜を指で拭いながら、ようやく周囲を見回した。
目の前に広がっていたのは――森の巨木たちの根元にひっそりと佇む、古い遺跡? だった。




