聖なる遊歩
巨大な植物の怪物――いや、先ほど私に蜜を分けてくれた怪物の後ろを、私はトボトボとついて歩いていた。
彼が歩くたびに地面と私の頬が揺れる。
二階建ての家ほどもある巨体と、無数の触手のような蔓。どう見てもb級パニックホラーの怪物である。けれど、その背中はどこか頼もしくもあり、同時に異様な雰囲気を醸し出していた。
ふと、歩きながら思い至る。
これからこの広い森で一緒に過ごすことになるかもしれないのに、いつまでも「木や花さん」と呼ぶのも味気ない。
「ねえ……そういえば、あなたのことをなんて呼べばいいかしら?」
私はドレスの裾を少し持ち上げ、根っこを足のように器用に動かして進む彼の横顔(いや、巨大な蕾)を見上げて尋ねた。
すると、彼は巨大な花頭を少しだけこちらに傾け、語りかけてくる。
『私の名前、ですか? 申し訳ありませんが、私には名前などありませんよ』
さ〜らりと、彼はそう答えた。
「えっ、ないの? 一つも?」
『ええ。私たち植物は、個を識別するための名前という概念を持ちませんから。根を通じた意思の共有か、あるいは魂の波長で会話をします。人に呼ばれる固定された固有名詞など、持ったことがないのです』
「そっか……。じゃあ、私が勝手に名前を付けてもいいかしら?」
『おやおや、私に名をくださるのですか? ええ、お好きなようにどうぞ』
私はうーんと腕を組んで考え込んだ。
彼の見た目は凶悪そのものだけれど、口調は驚くほど穏やかで、思慮深く、どこか教養を感じさせる。命を助けてくれた時の気品すら漂う佇まい。
(うーん、紳士みたいな口調だし……前世の言葉から取って……)
「じゃあ……『ジェントル』なんてどうかしら? 紳士的で優しいあなたにぴったりだと思うのだけど」
私が提案すると、巨大な植物はぴたりと足を止めた。
……無言である。
ゆらゆらと揺れていた触手のような蔓もぴたりと動きを止め、無数の鋭い牙が並ぶ巨大な蕾が、じっと私を見つめたまま固まっている。
数秒の重い沈黙。
「あ、あの……気に入らなかった……? ごめんなさい、私センスがなくて。嫌なら別の名前にするわ!」
私は申し訳なくなって、慌てて手を振った。前世でもネーミングセンスには自信がなかったのだ。実家で飼っていた猫に『もち』と名付けようとして親に却下された記憶が蘇る。
すると、ジェントル(仮)は困惑したように、巨大な葉っぱの『手』で頭の蕾をポリポリと掻くような仕草をした。
『いえ……気に入らないなどというわけではないのです、お嬢さん。……ただ、これまでに一度も「名前」というものを呼ばれたことがなかったので、どのような反応をすれば正解なのか、私自身にも分からないのです』
「分からない……?」
『ええ。人に伝わるように例えるならば……そうですね』
ジェントルは一拍置き、朗々とした老紳士の声で例え話を始めた。
『旅先でふらりと立ち寄った見知らぬ場末の酒場で、扉を開けた瞬間、いきなり店主から奥の最も豪華な特別席へと案内された時の……あの、なんとも言えない戸惑いと誇らしさが混ざり合ったような感覚、とでも言いましょうか』
「……」
私はポカンとして、巨大な植物を見上げた。
(なにその、めちゃくちゃ具体的でよく分からない例え……)
旅先の見知らぬお店で主賓席。絶妙に体験したことがないシチュエーションだが、要するに「光栄だけど、突然すぎて戸惑っている」ということなのだろうか。
「な、なるほど……。とりあえず納得したわ」
私が苦笑いしながら頷くと、彼はどこか嬉しそうに『ジェントル、ですね。悪くない響きです』と囁き、再び歩き始めた。
こうして、二階建ての家ほどもある植物の怪物は、正式に『ジェントル』という名前を手に入れたのだった。
─
ジェントルの後に続いて森の奥へと進みながら、私は終始、周囲の光景から目を離すことができずにいた。
そこは、地球で見たことのあるどの森とも、似ても似つかない場所だった。
歪で、勇ましく、どこまでも鬱蒼とした緑。だが、ただの緑ではない。
「……何、ここ。すごすぎる……」
私の口から、感嘆とも恐怖ともつかない吐息が漏れる。
様々な色をした木々や植物が、生態系のルールなど完全に無視して、バラバラに生い茂っていた。
桜のようなピンク色の葉をつけた大木が立っているかと思えば、その隣には、金属のような光沢を放つ青い蔓が巻き付いた漆黒の幹がそびえている。地面に目を向ければ、幾何学模様を描く多色な草が絨毯のように広がり、踏みつけるのが躊躇われるほどだった。
何よりも異質なのは、それらの植物自体が『発光』していることだ。
鬱蒼とした森の天井は、巨大な樹木たちの葉によって完全に覆われ、太陽の光はほとんど届かない。それなのに、森の中はほの暗い幻想的な光で満ちていた。
雪のように白く透き通った光を放つ木。
まるで街頭のように暖かな黄色い光を周囲に振りまく木。
さらには、鼓動のように明滅を繰り返す緑色の巨大なキノコ。
まるで、メルヘンな絵本の世界と、映画の惑星をミキサーにかけて混ぜ合わせたかのような、狂気に満ちた美しさだった。
「ひゃっ!? 虫!?」
感嘆の声を上げて上を見上げていた私の顔面に、パシッと軽い衝撃が走った。
ハッとして目の前を見ると、手のひらサイズのかわいらしい生き物が数体、パタパタと空中で静止していた。
それは、まるでカラフルな折り紙を折って作られたかのような形をした妖精たちだった。自ら淡い七色の光を放ちながら、繊細な羽を動かしている。
ぶつかってきた一番手前の黄色く発光する妖精が、小さな手(のような角)を合わせてペコリとお辞儀をした。
『ごめんなさい、前を見ていなかったの』
「い、いいえ、こちらこそ。怪我はなかった?」
『平気! じゃあねー!』
折り紙の妖精たちは、風に乗るようにクルクルと旋回すると、光の尾を引いて森の奥へと飛び去っていった。言葉が通じたことに驚きつつも、その愛らしさに少しだけ胸が和む。
少し離れた苔のむした倒木の上では、傘の直径が十センチほどの小さな紫色のキノコたちが、ぴょんぴょんとはね回っていた。
よく見ると、小さな足のような根っこで地面を走り、「待てー!」「捕まえてごらーん!」と言わんばかりに追いかけっこをしている。キャッキャという楽しげな笑い声が、私の耳に直接聞こえてきた。
(な、なにここ……すごくファンタジックで可愛い……。案外、天国みたいな場所なのかしら?)
先ほどまでの「死の恐怖」が少しだけ和らぎ、私の緊張の糸がほぐれかけた、その時だった。
「あ……見て、ジェントル! 猫がいるわ!」
白い発光植物の枝の上。
そこに、一匹の真っ白な猫が丸くなってくつろいでいた。
ふんわりとした毛並み、優雅に揺れる長い尾。前世で街中で見かけた野良猫と何ら変わらない、可憐な姿だ。猫好きの血が騒ぎ、思わず近寄ろうと足を踏み出しかけた。
だが、私の隣を進んでいたジェントルが、巨大な触手(蔓)をパッと私の前に突き出して制した。
『お嬢さん、近づいてはいけないよ』
ジェントルの声に、これまで聞いたことのないような切迫した緊張感が走っていた。
「ただの猫じゃないの?」
『あれは【ステラキャット】。ステラキャットは、保有している魔力量が尋常ではないのです。絶対に近づいてはなりませんよ』
「……お、襲ってくるの!?」
私は恐怖で顔を強張らせ、背筋を凍らせた。あの可憐な猫が、突然巨大化して鋭い爪で襲いかかってくる姿を想像したのだ。
しかし、ジェントルの口から飛び出したのは、私の予想を遥かに斜め上を行く、異次元の解説だった。
『いいえ、襲ってくるわけではありません。ステラキャットには、人間に対する悪意などサラサラありませんから』
「どゆこと?」
『問題は、彼らの知性が極めて低いことにあるのです』




