日光浴マニア
『どうやらそちらの騎士たちは、私の外皮に張ってある『反射結界』に勝手にぶつかってしまわれたようですね。いやはや、申し訳ないことをしました。怪我は大丈夫でしょうか?』
丁寧にお辞儀をするように、大きな花頭を下げる怪物。
その光景は、側から見れば信じられないほど異様なものだったに違いない。
「ひ、ひぃ……っ!」
背後から、引きつった悲鳴が聞こえた。
見返すと、肋骨を折ったらしいガルムが、血を吐きながらも必死に這いつくばり、驚愕の眼差しで私を見ていた。右腕を骨折しているリュカも、痛みに耐えながら目を見開いている。
彼らの視点からすれば、さっきまで腰を抜かして泣いていた悪女セレスティアが、国宝級の騎士二人を一撃で沈めた化け物を前にして、平然と「独り言」を呟きながらコミュニケーションを取っているように見えるのだ。
しかも、化け物は私の言葉に応じて、まるで従順なペットのようにお辞儀をしている。
「セ、セレスティア……貴様、一体何を……。その化け物を、操っているのか……!?」
ガルムの掠れた声には、明確な「恐怖」が宿っていた。
やはり、こいつは本物の魔女だったのだと、彼らの脳内で最悪の誤解が完成しつつあるのが分かった。
(違うの! 操ってるとかじゃなくて、ただの世間話をしてるだけなのよ!)
そう叫びたかったが、彼らには植物の声は聞こえない。説明したところで、悪女の怪しげな術だと決めつけられるのがオチだ。
しかし、誤解されているとはいえ、このまま彼らを見捨てるわけにはいかない。記憶が戻る前の私がどれほど凄惨ないじめをしたとしても、今の私の精神はただの現代平民だ。目の前で人が血を流して死にかけているのを、黙って見ていられるほど冷酷にはなれない。
「あの、木さん……じゃなくて、お花さん?」
『はい、なんでしょう? お嬢さん』
「私の連れが、あなたの結界の影響で大怪我をしてしまって。彼らを助けたいのだけど、何か怪我に効くようなものはこの辺りにないかしら?」
私が尋ねると、植物は『ふむ』と顎を傾けた。
『私のせいで怪我をさせてしまったのですから、それくらいはお安い御用です。私の花びらの根元に溜まっている『透明な蜜』を収穫してください。それを傷口に塗れば、大抵の外傷はすぐに治りますよ。毒もありませんから、ご安心を』
「本当!? ありがとう!」
私はドレスの裾をさらに大胆に引き裂き、即席の布切れを作った。そして植物の足元に恐る恐る近づき、彼が差し出してくれた巨大な花びらの隙間から、とろりとした透明な蜜を布に染み込ませた。甘い、どこか柑橘類のような良い香りがする。
「ガルム卿、動かないで」
「くるな……! 魔女め、私に何の呪いをかける気だ!」
「うるさいわね! 死にたくなければ黙って治療されなさい!」
かつての高慢な口調を少しだけ真似て一喝すると、ガルムが怯んだ。その隙に、私は彼の胸元や口元に蜜をたっぷりと塗りたくった。
すると、どうだろう。
塗った瞬間から、彼の皮膚の下で骨がパキパキと音を立てて噛み合い、吐血で汚れていた胸元から、みるみるうちに血の気が戻っていくではないか。
「な……痛みが、消えた……? 肋骨が、繋がっていくだと……!?」
驚愕するガルムを放置し、私は次にリュカの元へ駆け寄った。
「リュカ卿、右腕を出して」
「セ、セレスティア嬢……? あ、熱い、いえ、すごく温かいです……」
歪んでいた彼の右腕に蜜を塗ると、一瞬で腫れが引き、骨が元の位置へと収まった。リュカは信じられないといった様子で、何度も五指を握ったり開いたりしている。
「本当に……治ってしまった。信じられない。あの化け物の体液が、これほどの聖女並みの治癒力を持っているなんて……」
二人の騎士は完全に回復した。問題なく動けるようになった彼らは、すぐさま立ち上がり、私と、その後ろに佇む巨大な植物の化け物から距離を取るように後退した。
その目は、感謝よりもむしろ、底知れぬ未知のものに対する強い警戒と恐怖に満ちていた。
「……任務は完了だ」
ガルムがへし折れた大剣の柄を捨て、冷たく言い放った。
「セレスティア・ヴァン・エルロンド。貴様を『名もなき森』の境界へと送り届けた。我々の仕事はここまでだ。貴様がその化け物を従えようが、ここでどう生きようが、我々の知ったことではない」
「先輩、行きましょう。これ以上、この魔の森に留まるのは危険です」
リュカもまた、複雑な表情で私を見つめていた。彼はいつも向けてくれていた「同情」の笑みを消し去り、ただの事務的な態度で頭を下げた。
「さようなら、セレスティア嬢。貴女の数々の悪行は許されるものではありませんが……命が助かったことだけは、神に感謝いたします。僕たちは、これで失礼します」
二人はパニックから立ち直った馬の手綱を掴み、王都へと引き返そうと馬車を反転させ始めた。
恐怖から逃れたいという本能と、悪女を未開の地に置き去りにするという任務の完了。彼らがここに留まる理由は、もう何一つない。
しかし、その時だった。
私の後ろで、植物の老紳士が『おや?』と声を上げたのだ。
『お嬢さん、あの方たちは王都とやらに帰ろうとしているのですか?』
「ええ、そうよ。私をここに降ろしたから、彼らは自分たちの国へ戻るのよ」
『それは……お止めした方がよろしいかと』
「え? 一体どうして?」
植物の声は、先ほどまでののんびりとした調子から一転し、ひどく真面目で、どこか哀れみを含んだものに変わっていた。
『ここは『神の森』……いえ、私たちの間での真の名は【地父神ガイアードの森】。世界が創造された始まりの地の一部であり、神の力によって完全に隔離された空間なのです。ここへ至る道は一方通行。一度でもこの領域の境界線を越えて立ち入った者は――決して、元の世界へは出られないのですよ』
「……っ!? それ、本当なの!? 私もヤバいじゃん……いや、そうじゃなくて、本当に本当?」
私が目を見開いて叫ぶと、植物は悲しげに首(茎)を横に振った。
『ええ。戻ろうとすれば、空間が無限に歪み、元の場所へと戻ってしまうだけ。そして結界の作用が働き、最終的には精神を汚染されて森の肥やしになる……。彼らが元いた場所へ帰る方法は、この森には存在しません』
背筋に冷たいものが走った。
公式設定がないのではない。設定が「ない」ということ自体が、この現実の異世界が、いや本当に実在する空想でも妄想でもない神が作った『一度入ったら二度と出られない絶対のデッドエンド』というルールの証明だったのだ。
「ガルム卿! リュカ卿! 待って、行かないで!」
私は反転して歩き出そうとする二人の背中に向かって、必死に叫んだ。
「戻っちゃダメ! この森は一度入ったら二度と出られない神の結界が張られているの! 戻ろうとしたら空間が歪んで、死ぬまで森を彷徨うことになるわ! お願いだから、私の言うことを信じて!」
私の必死の警告。
だが、馬の足を止めたガルムは、振り返りすら放置したまま、冷酷な言葉を投げ捨てただけだった。
「ふん……。今度は我々をここに足止めし、その化け物の餌にでもする気か? どこまでも浅ましい悪女め。貴様の嘘に騙される男が、国にまだいると思っているのか」
「違うの! 本当に、この植物がそう言っているのよ!」
「セレスティア嬢」
リュカが、馬の上から最後に一度だけ私を見た。その目には、完全な絶望と哀れみが混ざっていた。
「もう、見苦しい嘘をつくのはやめてください。貴女の言葉は、何一つ信じられません。……ですが、どうか、お元気で」
「リュカ卿! ガルム卿!」
私の静止の声も虚しく、二人の騎士は馬に鞭を当て、鬱蒼とした緑の闇の向こうへと駆け去っていった。ガタガタと音を立てる空の馬車を引き連れて、彼らは「帰れる」と信じている元の世界の方角へと消えていく。
静寂が、再び森を支配した。
残されたのは、泥まみれで破れたドレスを着た私と、二階建ての家ほどもある植物の化け物だけ。
『行ってしまいましたねぇ〜』
ぽつりと、植物が呟いた。
「ええ……。行っちゃったわ」
彼らは戻れない。いずれ空間の歪みに囚われ、私に牙を剥くこともなく自爆したあの時のように、森の防衛機構によって全滅するのだろう。私を助けてくれたリュカも、冷たかったけれど任務に忠実だったガルムも、もう二度と王都の地を踏むことはない。
完璧な、孤立無援。
悪行の限りを尽くした悪役令嬢セレスティアに用意された舞台は、観客もいなければ、出口もない、正真正銘の終わりの世界だった。
「……さて」
私は泥だらけの手を払い、大きく深呼吸をした。
不思議と、もう涙は出なかった。絶望が極限を越えると、人間(元OL)のメンタルは逆に妙な方向へと開き直るらしい。
「行く場所もないし、戻る場所もない。……植物さん、とりあえず、この辺りで一番安全に野宿できる場所を教えてもらえる?」
『おや、肝の据わったお嬢さんだ。ええ、喜んで案内しましょう』
悪役令嬢の本当の人生は、公式設定すらないこの神の聖域で、巨大な植物をお供に、今ここから始まるのだった。
「ところで日光浴は好きですかな?」
「肌を焼くのは、あまり好みじゃないかな……」
「焼く? 光は食べるものだ」
「……そお」




