イドラの揺り籠
鼓膜を直接針で突き刺されるような、凄まじい咆哮が森の空気を震わせる。
その音圧だけで、馬車を覆っていた古い木製の屋根がミシミシと悲鳴を上げた。暴れる護衛の馬たちの狂乱した嘶きと、御者の悲鳴が交錯する。
「ひっ、あ、ああ……っ!」
私は完全にパニックに陥っていた。
逃げなきゃ。そう頭では理解しているのに、腰が完全に抜けてしまって力が入らない。ドレスの裾が座席の金具に引っかかり、まるで底なし沼に囚われたかのように体が動かなかった。
(死ぬ! ここにいたら確実に押し潰されて死ぬわ……!)
前世の記憶を取り戻したばかりの脳が、必死に生存ルートを模索する。
私はなりふり構わず、かつてはエルロンド公爵家の至宝とまで称された美しい両手で、馬車の汚れた床を這った。爪が割れて血が滲み、泥まみれになろうとも関係ない。必死の思いで馬車の扉を押し開け、そのまま地面へと転がり落ちた。
地面に這いつくばったまま顔を上げると、そこでは二人の騎士が命懸けの死闘を繰り広げていた。
寡黙な騎士ガルムが、その強靭な肉体を躍動させ、身の丈ほどもある大剣を大上段から振り下ろす。狙うは怪物の植物の根元。熟練の騎士による、岩をも断ち切る一撃だ。
だが、響き渡ったのは肉や植物を断つ音ではなかった。まるで強固な魔力障壁、あるいは巨大な鋼鉄の塊に激突したかのような、鋭い金属音。
「なっ……がはっ!?」
次の瞬間、ガルムの体がラグドールのように吹き飛ばされた。
植物に攻撃が当たった瞬間、彼が放った衝撃がそのまま寸分違わず彼自身へと『反射』されたのだ。ガルムは激しく木々に激突し、口から鮮血を吐き出してその場に崩れ落ちた。愛用の大剣は無残にへし折れている。
「ガルム先輩! ――くそっ、この化け物め!」
リュカが、温厚さを完全にかなぐり捨てて突撃する。彼の剣が鋭い突きとなって植物の茎を狙うが、やはり結果は同じだった。
パァン、と弾けるような光の粒子が舞い、リュカの剣は粉々に砕け散る。その衝撃でリュカもまた数メートル後方へと弾き飛ばされ、地面を何度も転がって動かなくなった。彼の右腕は妙な方向に曲がっており、激しい苦悶の表情を浮かべている。
(嘘……。王国でも有数の実力を持つ騎士たちが、一撃も与えられずに全滅するなんて……)
これが『名もなき森』の現実。公式設定すらない、ただプレイヤーの視界から不都合なキャラクターを消し去るためだけに用意された、死の暗黒空間。
怪物の植物は、邪魔な羽虫を払い終えたとばかりに、その奇怪な体をさらに大きく蠢かせた。
左右の茎から、触手のように長い蔓がうねるように伸びる。その先端には、人間の胴体ほどもある巨大な葉っぱがついており、まるで一対の「両手」のように見えた。
その両手を大きく左右に広げ、植物の化け物は、再び天に向かって大口を開けた。
地響きが迫ってくる。無数の茨の鞭が、地面を這いながら私の方へと向かってくるのが見えた。
(ああ、もうダメだ。終わったんだわ……)
私は逃げるのを諦め、その場にうずくまって恐怖のあまりぎゅっと目を瞑った。
せめて痛みが一瞬でありますように。そう願いながら、死を覚悟した。
死の間際に見るという、走馬灯が脳裏を駆け巡る。
けれど、そこに浮かび上がったのは、悪役令嬢セレスティアとしての華々しい王宮での記憶ではなかった。
――金曜日の夜、仕事帰りにドラッグストアに寄って、新作のアイシャドウ パレットを見つけた時の小さな高揚感。
――給料日前の寂しい冷蔵庫から、しなびたキャベツと賞味期限ギリギリの卵を引っ張り出して、なんとか形にしたオムライスが意外と美味しくできた時の満足感。
――週末の深夜、ベッドの中でだらだらとスマートフォンの動画を見ながら、冷えた缶チューハイを煽るあの怠惰で、けれど最高に愛おしい時間。
どれもこれも、くだらなくて、ささやかで、平凡な前世の記憶。
(せめて……もう一度だけ、揚げ物が食べたかったな……)
そんな場違いな後悔を抱きながら、私は来るべき衝撃を待った。怪物の牙が私の体を噛み砕き、その胃袋へと収める瞬間を。
…………。
……あれ?
十秒、二十秒と時間が経過していく。
だが、一向に痛みが訪れない。それどころか、あれほど激しかった地響きも、馬たちのパニックを起こした鳴き声も、すべてが嘘のように静まり返っていた。
(え? 私、もう死んで魂だけになってるの?)
恐る恐る、薄目をあける。
視界に飛び込んできたのは、相変わらず目の前にそびえ立つ、二階建ての家ほどもある巨大な植物の姿だった。
それは、両手を大きく広げ、大口を開けたままのポーズで、ピタリと静止していた。まるで時間が止まってしまったかのように、微動だにしない。
私がポカンとしてその化け物を見上げていると、ふいに、私の『植物と話せる能力』が、その化け物の「声」を拾い上げた。
『……ふぅ、あーーーー。やっぱり、ここの場所の日光浴は最高だなぁ。久しぶりに雲が晴れて、お日様の光がたっぷり浴びられるよ。気持ちいいなぁ……。体がよく伸びる~』
「……え?」
私は思わず声を出してしまった。
耳を疑った。今、この化け物、なんて言った?
日光浴? 気持ちいい? 体がよく伸びる?
慌てて脳内で情報を整理する。
さっきの、鼓膜を劈くような恐ろしい「咆哮」は、もしかして……。
(ただの、あくび……? あるいは、ただの深呼吸的な「伸び」だったの……!?)
その凶悪極まりない外見と、あまりにも緊張感の欠片もないのんびりとした声のギャップに、私の頭は完全にフリーズした。
植物の化け物は、しばらく太陽の光を浴びて満足したのか、大きく広げていた両手(蔓)をだらんと下ろし、ゆっくりと花の顎を閉じた。
私は恐怖で心臓をバクバクと鳴らしながらも、生き残るための唯一の糸口である『能力』に全てを懸けることにした。ここで黙って見つかるのを待つよりは、話しかけてみた方がマシだ。
「あの……、もしもし?」
蚊の鳴くような声で、恐る恐る話しかけてみる。
すると、巨大な蕾がビクッと揺れた。大きな花びらがぐるりとこちらを向き、無数のノコギリのような牙が、じっと私を見下ろす。
『おや?』
脳内に響いたのは、驚くほど丁寧で、どこか穏やかな老紳士のような声だった。
『失礼しました。どなたかと思えば、小さなお嬢さんではありませんか。こんな場所にお客様だなんて、珍しいこともあるものですね』
「えっと……あの、私たちはあなたの縄張りを荒らすつもりはなくて……」
私が震えながら言うと、植物は困ったように両手の葉っぱをパタパタと振った。
『おやおや、誤解しないでください。私はただ、久しぶりの日光が嬉しくて伸びをしていただけなのです。……お恥ずかしい話、私は視力がとても弱くてですね。そちらにいらっしゃる馬や、そこの武装した人間たちの存在に、今しがた気がついたところなのです。驚かせてしまいましたか?』
「き、気がついていなかったの!?」
思わず大声を上げてしまった。
つまり、この化け物は私たちを襲うつもりなど毛頭なく、ただ単に「あ、太陽だ! 伸びしよ! ギィイイイイ!(あくび)」とやっただけなのだ。そこに勝手に突撃していった騎士たちが、自爆したというわけである。なんて人騒がせな日光浴なんだ。私の恥ずかしい走馬灯の記憶の責任を取って欲しい。




