妄想深謀
「……ひっ」
私、ガルム卿、リュカ卿の三人は、完全に恐怖で身を凍らせていた。
巨大な蜂の化け物。太い樹皮で覆われた黒と黄色の胴体に、人間の腕ほどもある猛毒の針。そして、無数の赤い木の実が集まった複眼が、焚き火の光の中で冷酷に私たちを見下ろ続けている。
大顎が嫌な音を立てて蠢き、今にも私たち三人をまとめて噛み砕き、その巨大な針で刺し貫くかと思われた。
まさにその時だった。
『あ、ごめんなさい。あの焚き火の明かりで来てしまったの。古代樹って、どちらでしたっけ?』
「……え」
耳を疑った。
巨大な蜂の化け物の口から飛び出してきたのは、恐ろしい地獄の咆哮でも、人間を嗜虐するような不気味な声でもなかった。
それは――まるで街角で道を尋ねてくる、おしとやかで可愛らしい甘い声だったのだ。
あまりのギャップに、私の頭は一瞬完全にフリーズした。
だが、これまでのジェントルとのやり取りで培われた「植物との対話慣れ」が、半ば自動的に私の口を動かしていた。
「あ……えっと……! 古代樹? でしたら、あちらの方向です……!」
私は必死に恐怖を押し殺し、先ほどジェントルが「日光浴の続きをする」と言って去っていった、あの果てしない大樹の幹がある方向を、震える指先で指し示した。
すると、巨大な蜂の植物は、大きな複眼をパチパチとまばたきさせ(るように木の実を光らせ)、嬉しそうに四枚の葉っぱの羽をふわりと揺らした。
『あら、ご親切にどうもありがとう、人間のお嬢さん。空を泳ぐ【キャノノーツ(樹冠の航海者)】が陽を遮って真っ暗になってしまって……どこに向かっているのか分からなくなっていたの。あなたたちの焚き火に誘われて助かったわ』
そう言って、蜂型植物はとてもお上品にお辞儀をするような仕草を見せた。
『それでは、良い日を』
ブゥゥゥゥン……!
風切り音と共に、巨大な蜂型植物は軽やかに宙へと舞い上がり、私が指差した古代樹の方角へと、夜のイルミネーションの中を優雅に飛んでいってしまった。
「……ふぅー」
緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込みそうになった。
ただの道迷いの巨大蜂だったのだ。そういえば、空を泳ぐあのクジラのような植物は『キャノノーツ』という名前なのか。陽を遮ったせいで迷子になって、焚き火の明かりを頼りに降りてきただけらしい。どこまでも人騒がせで、どこまでもマイペースな森の住民たちである。
「……よかったぁ、襲われるかと思ったわね……」
冷や汗を拭い、ホッと胸を撫で下ろしながら、私は後ろを振り返った。
「ねえ、ふたりとも。大丈夫? ただ道を聞かれただけで……」
言いかけて、私は言葉を失った。
そこには――騎士としての威厳など微塵もなく、無残に泥の上に腰を抜かしているガルム卿とリュカ卿の姿があった。
二人は青ざめた顔で、去っていった蜂の空路と、私とを交互に見比べ、まるで「生きている悪魔」を見るかのような恐怖の眼差しを私に向けていたのだ。
「な……なんて、悍ましい力を持った魔女だ……ッ!」
ガルムが、へし折れた剣の柄を拾い上げ、再び握りしめたまま、ガタガタと歯の根を鳴らして叫んだ。
「あ……あんな死の使者のような化け物を……意とも容易く制し、手駒のように従え、遠くへ追い払うとは……! 貴様、一体どれほどの禁忌の術を修めたというのだ……!?」
「セ……セレスティア嬢……っ!」
リュカもまた、生気を失った瞳で私に哀願するように両手を合わせた。
「お、お願いです……どうか、その恐ろしい力で、僕たちを苦しめて殺さないでください……! もし、僕たちを処分するつもりなら……せめて、一瞬で……楽に逝かせてください……っ!」
二人の必死すぎる勘違いと乞い願う姿に、私は深いタメ息をついた。
「はぁ……。何度も言わせないでちょうだい。私は何も操っていないし、二人を殺すつもりなんて毛頭ないわよ。あの蜂さんは、ただ焚き火の火に寄せられて道に迷っていたから、方向を教えてあげただけ。助けてあげたというか、ただの親切よ」
「騙されるものか!!」
聞く耳を持たないガルムにこれ以上付き合うのも疲れ、私は肩をすくめた。
「もういいわ。私はお腹が空いているから、ご飯にする」
私は呆然とする二人の間を悠々と通り過ぎ、先ほどから香ばしい匂いを漂わせている焚き火の前の切り株へと向かった。
刺してあった『ウロココケウオ』の表面の葉っぱウロコが、火の強熱で限界まで熱せられ、あふれ出た濃厚な脂が、火床に滴り落ちた瞬間に、爆発的な香ばしさを生み出している。
粗塩が焼け焦げるような匂いと、燻された煙の匂いが入り混じり、その中心から、魚本来の深く甘い脂の香りが濃厚な湯気となって、鼻を刺すように立ち上っている。きつね色の樹皮目から、ふっくらと焼けた身が裂けるたびに、閉じ込められていた旨味の強い香気が一気に溢れ出し、そのジューシーな匂いだけで口の中が潤うような、圧倒的な香りの存在感が私を支配していく。その脂の弾ける音が、私の空腹を激しく刺激した。
切り株に腰掛け、耐えきれずに一本の串焼きを手にとったその時。
「あ、あの……セレスティア嬢……」
おずおずとした、消え入りそうな声が聞こえた。
振り返ると、泥まみれのリュカが、自分のお腹を押さえながら、物欲しそうな目で私が持つ魚の串焼きを見つめていた。
「……もし、よろしければ……その……食べ物を、少し分けてはいただけないでしょうか……? 僕たち、森に入ってから、まともに食事をとっておらず……もう、限界なのです……」
彼の喉が、ゴクリと鳴った。
数十日間におよぶ過酷な護送と、その後の絶望的な迷走。彼らの体力が限界を迎えているのは、一目見れば明らかだった。
「ええ、別に構わないわよ。十匹も焼いているから、一緒に食べましょ」
私はあっさり頷き、焼き上がった魚の串を二本、リュカの方へと差し出した。
「リュ、リュカ!! 気でも狂ったか!!」
その瞬間、ガルムが裂けんばかりの大声で叫び、リュカの手を払いのけた。
「ここで魔女の施し――いや、毒入りの餌を食らってみろ! この森に存在しない魚など、完全に奴の術中にハマり、一生この呪われた森から出られなくなるぞ!! 奴は我らを飼い慣らし、傀儡にしようとしているのだ!」
「ガルム先輩……でも、このままじゃ僕たち餓死してしまいます……」
「黙れ! 騎士たる者、魔女の毒飯を食らうくらいなら、誉れ高く死を選ぶべきであろうが! 」
ガルムの徹底した拒絶に、リュカは困惑しながらも手を引っ込めてしまった。
私は串を戻し、最初の焼き魚を目の前へ持ってくる。
目の前に運んだ瞬間、炭火の芳しい香味がふわりと鼻腔をくすぐり、期待で胸が高鳴った。
狐色に美しく焼き上げられた一串にそっと歯を立てると、パリッと音を立てる樹皮目の香ばしい打鍼ののち、驚くほどしっとりと解ける白身の繊細な質感が口内に広がる。絶妙な火入れによって閉じ込められた清廉な旨味と、あふれ出る上質な脂の甘みが、極上の塩加減と見事に調和していく様は、まさに至福のひとときだった。
私は「う〜ん!」と目を閉じながら、魚の旨さをじっくりと堪能する。
鯖のような旨味脂、シラウオのような繊細な甘み、身の解け感、瑞々しさ、そして残香に至るまで隙がなく、魚という素材の持つポテンシャルが極限まで引き出されていいた。言葉を失うほどの上品な味わいに、ただひたすらに圧倒されてしまったのだ。
塩がなくても、魚自体に絶妙な塩気と様々な森のハーブの風味がついていて、臭みが一切なく、飛び上がるほど美味しい。しかも一切骨がないのだ。
「モグモグ……美味しい。とにかく旨い! …………モグモグ。はっ!? んん! あのね、モグモグ……ガルム卿」
私は身を飲み込み、ガルムを冷ややかな目で見つめた。
「どっちにしろ、あなたたちはもうこの森から出られないわよ?」
「……なに!?」
「あの時も言ったでしょう。ここは一度入ったら出られない神の結界が張られているって。それに、この森には見た目は美味しそうなのに『一口食べたら白鳥になって崖から飛び降りる毒果実』とか、『匂いを嗅いだだけで全身が麻痺して、意識があるまま虫に食われるキノコ(ジェントル節)』とかが、そこら中に生えているのよ」
私の生々しい説明に、リュカが「ひっ……!」と顔をひきつらせた。
「だからね、意地を張って餓死するか、毒キノコを食べて虫の餌になるくらいなら、おとなしくジェントル……あの最初の大きい植物の近くにいて、素直に従った方が安全よ。彼の側なら、凶悪な魔物も近寄ってこないだろうし、安全な食べ物だって、話せなくとも、ジェスチャーでも何でも、きっと教えてもらえるもの」




