迷い客の帰還
家の前、私が起こした焚き火の明かりが届く範囲に――『ふたつの影』が立っていたのだ。
一つは、鋼のような体躯を持つ、大柄な男の影。
もう一つは、亜麻色の髪をした、若い青年の影。
暗闇と焚き火の光の中で、その二人の姿がはっきりと浮かび上がった。
泥まみれの甲冑。あちこちが引き裂かれた服。疲労と混乱で目の下に濃い隈を作り、ハァハァと荒い息を吐いている二人。
寡黙な騎士、ガルム卿。
そして、癒し系の騎士、リュカ卿。
私をこの『名もなき森』へと送り届け、捨て去っていったはずの、あの二人の騎士だった。
「……が、ガルム先輩……。ここ、さっきの場所じゃありませんか……?」
リュカが引きつった声で、周囲を見回しながら呟いていた。その声には、隠しきれない極限の疲労と、底知れぬ恐怖が混ざっていた。
「おかしい……。僕たちはまっすぐ王都の方角へ向かって、数時間以上も馬を走らせていたはずなのに……なぜ、またあの『球体の建物』の前に戻っているんですか……!?」
「落ち着け、リュカ……!」
ガルムが血走った目で周囲の闇を警戒し、へし折れた剣の柄を握りしめながら、低い声で威嚇した。
「空間が歪んでいるのだ。魔女の仕業だろう。だが、焦って動けば敵の思うツボだ。……誰かが近くにいるのかもしれんぞ」
「ひっ……誰かって……あの魔女のセレスティアですか!? それとも、あの植物の怪物……!?」
二人は背中を合わせ、パニック寸前の状態で周囲の暗闇へと視線を走らせていた。
ジェントルの言っていた通りだった。
この『ガイアードの聖域』は、一度足を踏み入れた者は二度と外へ出られない神の結界が張られている。
彼らは任務を完了させて王都へ帰還しようとしたが、空間の歪みに囚われ、どれだけ進んでも同じ場所へと戻される無限ループにハマっていたのだ。馬もどこかへ逃げてしまったらしく、二人は泥まみれになりながら、徒歩でここまで戻ってきてしまったらしい。
私はピッチャーを抱えたまま、少しだけ困惑した。
彼らは私を悪女と決めつけて、誤解したまま去っていった人たちだ。だが、目の前でボロボロになって怯えている姿を見ると、元・現代人の私としては、どうしても突き放しきれないものがあった。
私は意を決し、少しだけ声を張り上げた。
「……あの」
「っ――!?」
私の声が響いた瞬間、ガルムとリュカの身体が跳ね上がった。
ガルムは反射的にへし折れた剣の残骸をこちらへと構え、リュカは「ヒッ!」と悲鳴を上げて数歩後退した。
焚き火の揺らめく光の中に立つ私。
洗いたてのピカピカのドレスを着て、シルクのようにツヤツヤな銀髪をなびかせ、手には新鮮な天然水が入ったピッチャーを抱えている。
全身泥まみれ、死に体だったはずの悪役令嬢セレスティアが、あまりにも「快適で幸せそう」にそこに立っていたのだ。
「せ……セレスティア……っ!?? む、無傷……だと……!?」
ガルムの目が、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。
「一体なぜ……なぜ貴様がここにいる!? いや、その格好は一体何だ!? なぜそんなに身なりが整っている……!?」
「セ、セレスティア嬢……!?」
リュカもまた、恐怖と困惑で顔を歪ませ、引きつった声で叫んだ。
「僕たちは……僕たちは一体、何の呪いにかかっているんですか!? 答えてください! 貴女が……貴女がこの森の力を使って、僕たちを弄んでいるのですか!?」
二人の頭の中では、完全に『セレスティア=森を統べる恐ろしい大魔女』というストーリーが出来上がっているようだった。
身なりは綺麗だし、傷は完治しているし、天然水を持って余裕の笑みを浮かべている(ように見える)。彼らからすれば、自分たちを絶望のループに閉じ込めた黒幕にしか見えないのだろう。
「ち、違うのよ二人とも。誤解しないで」
私は両手でピッチャーを抱え直しながら、必死に弁明しようと口を開いた。
「私は二人を呪ったりなんてしていないわ! 言ったでしょう、この森は一度入ったら出られない結界が張られているの。だから戻ってきちゃったのよ。……それより二人とも、泥まみれで疲れているでしょう? そこに火があるから、温まって……」
「騙されるか、魔女め!!」
ガルムが血走った目で叫んだ。
「貴様のその見せかけの優しさに騙されて、あの化け物の胃袋に収まるつもりはない! 我らをここに閉じ込め、弄んで殺す気だろう! どこまで浅ましい女だ……っ!」
「ガルム卿、本当に違うの……!」
言いかけた、まさにその時だった。
ドサッ……!!
私の背後、ほんの数メートル後ろの闇から、重く湿った「着地音」が響いた。
地面が揺れ、焚き火の炎が大きく揺らめく。
「……っ!?」
ガルムとリュカの顔から、一瞬で血の気が完全に引き去った。
彼らの瞳に宿ったのは、私に対する警戒など遥かに凌駕する、底知れぬ『絶対的な死の恐怖』だった。
リュカの唇がガタガタと震え、指し示した手が力なく空を彷徨う。
「あ……あ……あ……っ」
「が……ガルム……先輩……」
ガルムの持っていた剣の残骸が、手から滑り落ち、虚しい音を立てて地面に転がった。
何が起きたのか。
私の背後に、何が現れたのか。
背中に伝わってくるのは、刺さるような冷気と、巨大な風切り音。
そして、ブゥゥゥゥウン……ブゥゥゥゥウン……という、重低音の「羽ばたき」の音だった。
私はゴクリと唾を飲み込み、抱えていたピッチャーを強く抱きしめながら、恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……ひっ」
私の口から、小さな悲鳴が漏れた。
そこに降り立っていたのは――巨大な『蜂』の姿をした植物だった。
体長は大型トラックを超えている。
重厚な黒と黄色の樹皮で覆われた巨大な胴体。お腹の先端には、人間の体ほどもある鋭く毒々しい「針」がギラりと光っていた。
胸部からは、クリアパーツのように透き通った4枚の巨大な「葉っぱの羽」が生えており、それが高速で微振動して不気味な音を響かせていた。
そして、最も恐ろしいのは、その顔だった。
真っ赤に光る無数の小さな木の実が集まった「複眼」。
その複眼が、焚き火の明かりの中で、冷酷に――私、そしてガルムとリュカの三人を、明確な『獲物』のように見下ろしていたのだ。
カチカチカチカチ……ッ。
巨大な蜂型植物の大顎が、獲物を噛み砕くシミュレーションをするかのように、嫌な音を立てて蠢く。
さっきまでの「楽しい夜のキャンプ」の空気は、一瞬で吹き飛んだ。
絶望のループから抜け出せず、満身創痍で戻ってきた二人の騎士。
そして、洗いたての服を着て焼き魚を作っていた、丸腰の私。
狂気の魔境『名もなき森』は、私たちが束の間の安らぎを得ることすら許さないとばかりに、最悪の捕食者を送り込んできたのだった。




