天空の旅人
「ぷにぷに」の壁を通り抜け、足取りも軽やかに外へと飛び出した私の身体は、一瞬にして硬直していた。
「……え?」
思わず、抱えていたフキの葉のかごから魚がこぼれ落ちそうになり、慌てて両手で抱え直した。
暗い。
あんなに眩しく燦々と降り注いでいた太陽の光が消え去り、周囲は一変して、深海のように重々しい闇に包まれていたのだ。
(どういうこと……? 太陽が沈んだの……?)
脳裏を掠めたのは、ジェントルから聞かされたこの森の、いやこの世界のルールだ。
ここは一年ずっと「昼」が続き、その後に一年ずっと「夜」が訪れる場所のはずだ。長い時を生きてきた彼が嘘をつくはずもないし、時間の感覚が狂っているとはいえ、私が室内でお風呂に入って身支度を整えていた小一時間ほどの間に、一年という年月が経過したなどとは到底思えない。じゃあ、偶然節目だった?
「真っ暗……。でも、月が出ているわけじゃないわよね……?」
私は戸惑いながら周囲を見回した。
確かに暗いのだが、完全な無光の世界というわけではなかった。
森のそこかしこに生い茂る奇妙な樹木や色鮮やかな草木、発光するキノコたちが、まるで街灯やイルミネーションのように、青や黄色、薄紫の幻想的な光をぽつぽつと放ち、周囲をほの暗く照らし出していた。
だが、根底にあるのは間違いなく「漆黒の闇」だ。何かが太陽の光を完全に遮断している。
私は意を決し、ゆっくりと顔を上げた。
「……っ!?」
次の瞬間、私の膝がガクガクと激しく震え、喉からかすかな引きつった息が漏れた。
空全体が、圧倒的な「何か」によって覆い尽くされていた。
遥か上空、大気圏すら届きそうな高空を、ゆったりと、どこまでも静かに進んでいく一頭の巨大な影。
下から見上げるその姿は――巨大な「クジラ」の形をしていた。
地球の海に棲むクジラなど比ではない。王都の街がまるごと背中に乗ってしまうのではないかと思えるほどの、天を突く超・巨大生命体。
その漆黒の身体は肉ではなく、太い古代の流木や重厚な樹皮が編み込まれたような質感をしていた。長い胸びれの先端からは、何百本もの輝く蔓がオーロラのように垂れ下がり、巨大な尾びれが空を泳ぐたびに、大気が重低音で微動している。背中には、まるで小さな星々のように発光する苔や高山植物の群生がびっしりと生い茂り、独自の生態系を形作っていた。
そう、それは空を泳ぐ『植物の巨鯨』だったのだ。
あまりの規格外のスケール。あまりの質量感。
その超巨大なクジラ型植物が、私の頭上を悠然と通過している最中だったのだ。太陽の光をその巨大な体躯で完璧に遮り、森に「疑似的な夜」を作り出していたのである。
「すご……い……。大きすぎる……っ」
私は足元がおぼつかなくなり、そのまま近くにあった巨大な切り株の上に、へたり込むように腰を下ろした。
恐ろしいという感覚すら通り越し、ただただ人間の矮小さを思い知らされる圧倒的な存在感。この森の生態系は、私の想像を遥かに超えた次元で回っているのだ。
遠い銀河の光を吸い込んだような、透明で透き通る反響音がこの森全体に木霊していた。クジラのようなその鳴き声に、私は心を奪われた。
私は両頬を叩いて溜め息をつくと、立ち上がって深呼吸をした。
空のクジラがどれほど巨大だろうと、私という一人の人間の胃袋がペコペコであるという現実は変わらない。
私は倒木から伸びていた固くて頑丈そうな植物の枝を何本か折り取り、手際よく葉っぱをむしり取った。そして、フキのかごから『ウロココケウオ』を取り出し、魚の口からお尻に向かって勢いよく枝を突き通していく。
葉っぱのウロコを持った不思議な魚だが、手応えはしっかりとした生魚の感触だ。十匹の魚を次々と串刺しにしていく作業は、前世でのバーベキューの準備を思い出させて、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
次に、地面の落ち葉や乾いた小さな枝をかき集め、中央に小さな山を作った。
そして、右手に握りしめていた「炎のマークが彫られたドワーフの杖」を取り出す。
「火よ、点いて」
念じながら親指でマークを押すと、杖の先端からパチパチと温かな炎が燃え上がった。集めた枝に火を移すと、煙がふわりと立ち上り、ハゼる音と共に心地よい小さな焚き火が完成した。
パチ、パチパチ……。
焚き火の周囲の地面に、魚を刺した枝を少し斜めにして、放射状に突き立てていく。
炎の熱で、じわじわと魚のウロコ(葉っぱ)が黄金色に焦げ、香ばしい匂いが漂い始めた。
「よしっ! あとはじっくり焼き上がるのを待つだけね。……あ、お水も準備しなくちゃ」
私は一度立ち上がり、家に置いてあった真鍮製の大きなピッチャーを取りに戻った。
ドワーフの作ったそのピッチャーは、アンティークのように重厚で、冷たさを保つ魔法がかかっているようだった。
ピッチャーを抱えて外に出て、すぐそばにある巨大な「大樹の幹」へと向かう。
樹皮に開いた小さな穴へとピッチャーの注ぎ口を押し込むと、中で「ゴォォ」と流れていた天然の地下水が、勢いよくピッチャーの中へと流れ込んできた。
ひんやりと冷たく、透き通った綺麗な水が、あっという間にピッチャーを満たしていく。あふれ出る寸前で引き抜き、ひとくち口に含んでみた。
「……ん! 超おいしい!」
雑味が一切なく、まろやかで、ほんのりと甘みを感じる極上の天然水だ。前世で買ったどの高級ミネラルウォーターよりも清らかで美味しい。硬度が高いのだろうか。
満杯になった重いピッチャーを両手でしっかりと抱え、こぼさないようにゆっくりと足を進めながら、私はふと立ち止まって周囲の景色を眺めた。
「……やっぱり綺麗ね」
思わず、感動の溜め息が漏れた。
遥か上空からは、あの巨大なクジラ型植物の「鳴き声」が、重厚に、そしてどこまでも深く静かに、何度も響き渡っていた。
それは、大海原の底から聞こえてくるような、あるいは太古の地球の記憶を呼び覚ますような、しっとりと腹の底に染み渡る神秘的な歌声だった。耳に優しく、聞いているだけで荒立った心が安らいでいくような、圧倒的な癒しの波長。
空を見上げれば、漆黒の空を泳ぐクジラの背中で、無数の光る植物が星屑のように瞬いている。
そして地上では――。
太陽が遮られたことで、森の植物たちが一斉にその「本領」を発揮していた。
白く発光する木、黄色く輝く葉、脈打つ緑のキノコ。
先ほど私をからかって去っていったあの透明なクラゲ植物も、全身を虹色の綺麗な光で発光させながら、ふわふわと夜空(昼だけど)を舞っている。
折り紙の妖精たちも、七色の光の粒子を撒き散らしながら、花から花へと飛んでいた。
まさに、大自然が織りなす「極上のイルミネーション」だ。
前世で、キャンプに出かけた時のことを思い出す。
静かな夜の森で、焚き火の火を見つめながら、冷たい空気を吸い込んで温かい飲み物を味わう、あの贅沢で満ち足りた時間。
今のこの状況は、まさにあの「夜のキャンプ」そのものだった。
前世の窮屈なオフィスも、社交界のドロドロとした人間関係も、すべてが遠い昔の出来事のように思える。
「ふふ……本当に和むわね……」
私は口元をほころばせ、天然水で満たされたピッチャーを両手で大事に抱えながら、魚を焼いている我が家の前へと、ゆっくりと歩を進めた。
水をこぼさないよう、足元に注意しながら「ぷにぷにの家」の敷地へと戻ってきた、その時――。
「……え?」
私は思わず足を止めた。




