暴走湯船
極上のお湯に身を委ねてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
三十分くらいだろうか。それとも一時間?
何しろ、頭上にそびえる太陽は、空の同じ位置で数ミリ単位すら動いていない。影の長さも形も、さっきから寸分狂わず固定されたままだ。
『一年間ずっと昼』という狂った環境のせいで、時間の感覚というものが完全に麻痺しつつあった。
けれど、そんな時間の喪失すらどうでもよくなるほど、この露天風呂の居心地は素晴らしかった。
前世でお風呂に入った時は、長湯をするとすぐに頭がのぼせてクラクラし、リビングで扇風機強で冷たいフルーツオレを飲むのがお約束だった。
けれど、このドワーフたちが作った(あるいはエルフが残した)不思議なお湯は、どれだけ長く浸かっていても、まったく「のぼせそう」という不快な感覚が湧いてこなかったのだ。
体の芯までじんわりと温まっているのに、頭はすっきりと冴え渡り、全身の毛穴から疲労がじんわりと抜け出ていく。まるで身体が湯と一体化して、呼吸をしているかのような感覚だった。
「ふぁ~……極楽、極楽……。このまま一生ここで浮いていたいわ……」
私は湯船の縁に顎を乗せ、ぷかぷかと体を浮かべながら、幸せな脱力感に浸っていた。
――その、平和すぎる時間が破られたのは、本当に突然のことだった。
ドドドドドドドドドドドドド……ッ!!!!
「……ん?」
遠くの方から、地面を揺らすような地鳴りが響いてきた。
ズシン! ズシン! パキパキパキッ!
大樹が無理やりへし折られ、なぎ倒される凄まじい破壊音が、猛スピードでこちらへと近づいてくる。
次の瞬間――。
ザパーーーーーッ!!
「きゃああっ!?? なに、なに!? なにごと!? 重力がおかしくなったの!?」
私の体が、湯船ごと激しく上下左右に揺さぶられた。
湯船の中に溜まっていた大量のお湯が、まるで小さな津波のように大きくうねり、バシャバシャと豪快に縁を越えて外の花畑へと漏れ出していく。
「じ、地震!? 地震なの!?」
私は両手で必死に湯船の石の縁にしがみつき、半泣きで叫んだ。
人生において、最も無防備で嫌なタイミングの地震。
それは間違いなく「トイレ中」と「お風呂中」である。
ましてや今の私は、遮るものの何一つない大自然の真っ只中で、すっぽんぽんの生まれたてなのだ。揺れで転がり出たら、小鹿のように全身泥まみれという悲惨すぎる事態になる。
(嫌よ! 揺れが収まるまで絶対に離れないんだから!!)
必死で石の縁に爪を立てていると、目の前の鬱蒼とした森の茂みが、まるで巨大な重機で押し潰されたかのように、豪快に弾け飛んだ。
バキバキバキッ!
土煙を上げて姿を現したのは――「地鳴りの正体」だった。
「……え?」
私の口から、間抜けた声が漏れた。
そこにいたのは、地面を揺らすほど巨大な『怪物』たちだった。
体長は2階建て家屋ほど。力強い四肢で大地を蹴り、立派な牙を突き立てた、見た目は完全に「イノシシ」のそれである。
だが、彼らの身体は肉や皮ではなく、重厚な樹皮と極太の幹、そして固く編み込まれた蔦によって構成されていた。目にあたる部分には黄色の光る木の実が嵌め込まれ、背中には色鮮やかな苔や野草が生い茂っている。
そう、それは巨大な『イノシシ型の植物たち』だったのだ。
重音の咆哮を上げながら、イノシシ植物の群れが、怒涛の勢いで突き進んでくる。
一頭や二頭ではない。
数頭、数十頭――いや、数百頭!!
視界を埋め尽くすほどの巨大なイノシシ植物たちが、猛烈な大群をなして、一方向に進んできたのだ。まさに『植物の百鬼夜行』、あるいは『大移動』である。
「踏み潰されるぅうううっ!!」
私は死を覚悟して湯船の中で小さくなり、ぎゅっと目を瞑った。
地響きと風圧が、容赦なく私の肌を叩く。
すぐ横を、大型トラック並みの巨体が何頭も何頭も駆け抜けていく。あまりの猛進ぶりに、湯船は生きた心地がしないほど激しく揺れ、お湯は容赦なくバシャバシャと外へ溢れ出していった。
けれど――。
(……あれ? 踏まれない?)
恐る恐る、薄目を開けてみた。
信じられないことに、大群をなして突き進むイノシシ植物たちは、湯船のすぐ脇を通り過ぎる際、チラリと黄色く光る目で私(と湯船)を見下ろすものの、襲いかかってくる気配は一切なかった。
冷めた認識で、気にする様子もなく、そのまま前へ前へと突き進んでいくのだ。
彼らにとって、私など道端に転がる名も無き小石程度なのだろう。優先は、目的地へ向かうことらしい。
私は生まれたての姿で?湯船にしがみついたまま、通り過ぎるイノシシたちに引きつった笑みを向けるしかなかった。
数分後。
数百頭に及ぶイノシシ植物の群れは、私の横を暴風のように通り過ぎ、森の奥へと去っていった。
遠ざかっていく大群の足音が、ドスン……ドスン……と、遠くで響く夏の雷鳴のように、かすかに耳に届く。
静寂が、再び森へと戻ってきた。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
安堵の息を漏らし、私は自分の入っていた湯船の中を見下ろした。
そして、固まった。
「……あ」
さっきまでなみなみと注がれていた、あの極上のローションのようなお湯が。
大群の巻き起こした激しい揺れによって、そのほとんどが外へと溢れ出してしまい――湯船の中は、完全に『空っぽ』になっていたのだ。
足元にある排水パイプ(兼、給湯口)から、ちょろちょろちょろ……と、情けない音を立ててわずかにお湯が湧き出しているだけ。
生まれたての私が、お湯のなくなった広い石造りの浴槽の底に、ポツンと座り込んでいる。
あまりの虚無感に、私の両目は完全に『点』になった。
さっきまでの「最高の楽園」「解き放たれた自由」という感動的な余韻はどこへ行ったのか。ただただ、無防備な姿で干からびた浴槽にぽつんと取り残された、哀愁漂う元・悪役令嬢がそこにいるだけだった。
その時だった。
「クスクス……パチパチパチ!」
頭上から、かわいらしくも、どこかバカにしたような「笑い声」のようなものが聞こえてきた。
「え……?」
ハッとして上を見上げる。
そこには、一年中沈まない陽光に照らされて、空中をぷかぷかと浮遊する「何か」がいた。
それは、まるで前世の水族館で見たクラゲのような形をした植物だった。
傘の部分は完全に透明で、光を反射して虹色に輝いている。傘の下からは、レースのように繊細な半透明の触手が何本も垂れ下がっており、それが風に乗ってふんわりと揺れていた。
その透明なクラゲ植物が、空中でクルクルと旋回しながら、私の情けない姿を見下ろして「くすくす」と笑っていたのだ。
あからさまに、情けない姿で空の湯船に取り残された私を面白がっている!
「ちょっと!! なに笑ってるのよ!」
私が手で身体を隠しながら叫ぶと、透明クラゲは「クスクス」と涼しげな音を響かせ、からかうように空中をふわふわと泳ぎ、森の奥へと優雅に飛んでいってしまった。
「……もう嫌。出よう。家に戻ろう……」
一気に現実に引き戻された私は、呆れ果てて深くタメ息をついた。
お湯がなくなった以上、ここに居座る意味もない。
私は空っぽの湯船から這い出し、濡れた足で地面に立ち……かけたところで、ピタリと動きを止めた。
(待って。このまま裸足で歩いたら、足の裏が土でドロドロになっちゃうわ……)
せっかくお風呂で綺麗になったのに、汚れた足で「ぷにぷに我が家」に入るのは絶対に嫌だ。
知恵を絞った私は、すぐ近くに生えていた、アジサイを巨大化させたような「大きくて分厚い葉っぱ」を目につけた。
「よし……これを使おう」




