人生の楽園
さっきまでの羞恥心や、絶望的な心配、前世や今世でのトラウマなど、すべての思考が嘘のように一瞬で彼方へと吹き飛んでいった。
お湯は、全身を優しく抱擁するように温めてくれる。
前世の過酷な生存競争や、馬車での長旅で凝り固まっていた全身の筋肉が、まるで春の雪のようにトロトロと解けていくのが分かった。頭にくっついていたモコモコの泡も、肌にまとわりついていた甘い蜂蜜の残りも、この極上のお湯に触れた瞬間、綺麗な光の粒子となって立ち昇り、綺麗さっぱり消え去っていく。
湯船の縁に頭を預け、私はゆっくりと目を開けた。
視界に広がったのは、お湯の湯気越しに見える、あまりにも幻想的で、平和な『名もなき森』の日常だった。
遠く、古代樹の幹の根元では――。
ジェントルが、相変わらず巨大な二本の蔓(手)を腰の後ろで組み、胸を張って『日光浴』を続けている。彼は私の全裸入浴など完全に意に介しておらず、ただ気持ちよさそうに太陽の光を食べてゆらゆらと揺れていた。
さらに遠く、発光する巨木の太い枝の上では――。
あの「近寄って感情が高ぶると爆発させてくる」という恐ろしいステラキャットが、真っ白な身体を丸くして、すやすやと幸せそうに寝息を立てていた。
ふと、湯船の先の脇の苔のむした地面に目をやると――。
紫色の小さなキノコたちが、数匹ぴょんぴょんと走ってきた。
彼らは湯船の中にいる私の姿を見るなり、「ヒエッ! 人間だ!」と言わんばかりに小さな足をバタバタさせて、一度は蜘蛛の子を散らすように倒木の下へと逃げ込んでいった。
だが、数秒も経つと。
「……あれ? なんか害なさそう?」
「追いかけっこ再開だー!」
とでも言うように、私のことなどハナから忘れた様子で、再びキャッキャと追いかけっこを始めていた。
空を見上げれば――。
カラフルな折り紙の妖精たちが、七色の光の尾を引いてパタパタと飛んでいる。
妖精たちもまた、湯船に浸かる私など一瞥すらくれず、樹木に咲く大輪の花から一生懸命に蜜を集め、小さな腕で抱えてどこかへと運んでいっていた。
(……誰も、私を見ていないわ)
湯船の中で、私はポカンと空を見上げた。
ここには、「服を着ていない者」を蔑んだり、好奇の目で見たり、裁こうとしたりする存在は一人もいない。
彼らはただ、それぞれの命を、それぞれのスタイルのまま、自然の摂理に従って一生懸命に生きているだけなのだ。
この森において、『生まれたままの姿』という概念など、最初から誰も気にしていない。
その事実に完全に思い至った瞬間――
私の胸の奥底から、これまで一度も味わったことのないような、不思議なほど巨大な『開放感』がこみ上げてきた。
ふっと、脳裏を掠めたのは、前世での「あの窮地で張り詰めた情報社会」の影だった。
毎日、スマートフォンを開けば絶えず流れ込んでくる、膨大な情報の濁流。
見たくもない悲惨なニュース、誰かの炎上、他人の愚痴や攻撃的な言葉。
そして、最も心を蝕んでいたのは『相対的剥奪感』だった。
SNSを開けば、同年代の誰かが華やかなパーティーに参加している姿や、最新のブランド品を買った報告、キャリアでの成功、幸せそうな家庭の風景が流れてくる。
それらを見るたびに、十分幸せなはずなのに、なぜか自分の現状と比べてしまい、胸がキューッと締め付けられるような、名状しがたい喪失感と自己肯定感の低下に苛まれていた。
さらに、世間を覆う強烈な『同調圧力と監視社会』。
「普通はこうあるべき」「こうしないと浮いてしまう」「叩かれる」という目えない視線に怯え、常に「周囲からどう見られているか」を気にして、自分の本当の意見や感情を殺し、空気を読んで周囲に合わせ続ける日々。
ネットやSNSで広く浅い「繋がり」ばかりが増えていくのに、心の深い部分はいつも乾いていて、どれだけ人と繋がっても消えることのない、根深い孤独感。
セレスティアとして生きた令嬢時代も、それは変わらなかった。
公爵家という身分、社交界でのドロドロとした化かし合い、王子に気に入られるための完璧なマナー、少しでも隙を見せれば蹴落とされる足の引っ張り合い。
(……そうか。ドワーフたちが露天風呂を作った意図がようやく分かったわ)
湯船の中で深くお湯を掻き寄せながら、私はドワーフたちの真意を理解した。
彼らがわざわざ家の中ではなく、この開放的な庭にお風呂を作った理由。
それは、建築ミスでも何でもなかったのだ。
この森の中においては、そういった「隠さなければならない」「見られては恥ずかしい」という人間や文明社会の浅はかな邪念すら、あまりにも野暮で、小さすぎるものだったのだから。
皆が自然のまま、生まれたままの姿のまま、ただそこに在る。
この『名もなき森』という神の世界は、私が最初に怯えていたような単なる凶悪な魔境などではない。
文明の垢や、人間社会の醜いルールをすべて削ぎ落とし、ただ純粋な命として存在することを許してくれる――本当の意味での『生命の楽園』だったのだ。
前世での柵、今世での悪役令嬢としての罪や運命。
私を苦しめていた、あらゆるくだらない世情の楔から、私は今、完全に解き放たれていた。
「ふぅううううっ……」
私は湯船の中で身体を大きく伸ばし、視線をどこまでも高く上げた。
葉の隙間から覗く、一年中沈むことのない太陽。
雲を突き抜けて天空へと伸びる、母なる大樹の雄大な姿。
七色に光る空と、耳に心地よい風の音。
前世の人生においても、セレスティアとしてのこれまでの人生においても、一度たりとも感じたことのない――圧倒的な『幸福感』と、無限の『自由』が、私の心と身体をすみずみまで満たしていく。
「……本当に生きているわ、私」
誰の目も気にせず、誰の期待も背負わず、ただこの広い世界で、自分として生きている。
悪役令嬢として追放された果てに見つけたのは、身ぐるみ剥がされたどん底の絶望ではなく、世界で一番贅沢で、世界で一番自由な、最高の私だけの居場所だった。
(お風呂から上がったら、あの十匹の魚を美味しく焼いて、最高の夕食にしましょ!)
絶望の淵から始まった私の異世界サバイバルは、ここから本当の意味で、最高に楽しく、自由なスローライフへと変わっていくのだ。




