解き放たれる魂
冷たい窓ガラスに額を押し付けたまま、私は呆然と立ち尽くしていた。
ガラスの向こう、陽光が降り注ぐ美しい花畑の中央に佇むのは、どう見ても極上の露天風呂だった。石造りの風情ある浴槽から、心地よさそうな白い湯気が出迎えの合図のようにゆらゆらと立ち上っている。
「……はあ」
深い、深いタメ息が口から漏れた。
両手で胸と大事な部分を必死にかばうように隠した姿のまま、私は静まり返った広い部屋の中で一人、考えを巡らせ始めた。
(待って……落ち着きなさい、私。冷静になるのよ)
頭の中で、現状を整理する。
ここには、私以外の人間なんて一人もいない。
かつてこの建物を建てたエルフも、機械を残したドワーフも、百年以上前に立ち去って以来、誰も帰ってきていないのだ。
この場所は、単なる『未開の森』という言葉すら生ぬるい、神の結界に守られた完全に独立した別世界。
そして、この森に生きる住人たち――巨大な植物のジェントルをはじめ、風に舞う折り紙の妖精も、追いかけっこをする紫のキノコも、爆発の危険を孕んだステラキャットも――彼らは全員が『植物』や『聖域の精霊』のような存在だ。
彼らにとって、服を身に着けるなんて概念は、最初から存在しない。
そもそも『裸』という言葉や、それを恥ずかしがるという概念すら、彼らの頭の中には一かけらもないのだ。肉体とはただの「魂を宿す暫定の器」に過ぎないと、ジェントルだって言っていたではないか。
(……そう考えると、なに? たった一人で全裸であることに怯えて、ガタガタ震えている私って、一体どういう状況なの……?)
ふいに、前世のしょっぱい記憶が頭をよぎった。
かつて前世のOL時代、同僚たちから「今度の週末の集まりは私服で全然OKだから! 気軽に来てね!」と言われて参加した、とある異業種交流会。
「私服でいいんだ、よかった~」と真に受けて、お気に入りのちょっとおしゃれなカジュアル服で会場の扉を開けた瞬間、私の思考はフリーズした。
そこにいた参加者全員が、見事なまでにビシッと仕立てられたフルスーツや、フォーマルなドレスを身にまとっていたのだ。
あの瞬間の、血の気が引くような絶望。
「私だけ着るものを完全に間違えたんじゃないか」と全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、終始ソワソワして壁際で小さくなっていた、あの身の置き所のなさ。
今の状況は、まさにあれの『究極の逆バージョン』ではないだろうか。
周囲の全員が「裸という概念がない状況」で、自分一人だけが「服を着ていないと恥ずかしい!」とパニックになり、陰でガタガタと震えている。
(……なんか、そう思ったら急にバカバカしくなってきたわね)
誰も私の裸なんて見ていないし、気にもしていないのだ。ここで一人で恥ずかしがってモジモジしている方が、よっぽど自意識過剰で自縄自縛の愚か者ではないか。
「……よしっ」
私はぐっと両頬を叩いた。
度重なる死の恐怖、全身泡まみれのプードル事件、そして空腹を乗り越えた今の私には、変なプライドを捨て去るだけの開き直りが備わっていた。
意を決して、私は「ぷにぷに」の壁へと歩み寄った。
手で胸と股間を隠すポーズだけは崩さないまま、壁の中へと身体を滑り込ませる。
ポンッ。
軽い音と共に、一瞬で外の世界へと弾き出された。
「……くっ」
足裏に触れる、温かな草と、柔らかい苔の感触。
肌を撫でていくのは、むせ返るような生い茂る緑の香りと、湿気を含んだ温かい森の風だ。一年中ずっと「昼」が続く太陽の光が、惜しげもなく私の全身を照らし出す。
(生まれたままの姿で、公共の場を歩くなんて……なんてしんどいの……!)
私は必死に周りを警戒しながら、足音を殺してすり足で浴槽へと向かった。
前世の日本なら、間違いなく警察に通報されて即逮捕。ネットで「全裸で街を徘徊していた謎の女」として社会的に抹殺されるレベルの変態行為だ。
背筋に走る背徳感と妙なスリルで、冷や汗が皮膚を滑り落ちていく。
だが、目的地である露天風呂のすぐ手前まで来ると、私の前世の『石橋を叩いて渡る』慎重さが再び顔を出した。
いくら見た目が素晴らしい露天風呂でも、ここは狂気の魔境『名もなき森』なのだ。
見た目は美味しそうなパンの形をしたキノコが「生きたまま虫に食われる拷問毒」を持っている世界である。このお湯だって、足を入れた瞬間に肉が溶けて骨だけになる『強酸の地獄風呂』かもしれない。
「……まずは、安全確認ね」
私は湯船の縁にかがみ込み、徹底的な観察を開始した。
もしこのお湯に毒気や酸性のガスが出ているなら、湯船の周囲の植物は枯れ果てているはずだ。
だが、浴槽を取り囲むように生えている色鮮やかな花々は、青々と葉を茂らせ、みずみずしい蕾を開かせていた。小さな虫たちも、平和そうに花びらの上で遊んでいる。周囲に死骸の類いは一切落ちていない。
私は足元に咲いていた、名も知らぬ小さな白い花をひとつ、そっと摘み取った。
そして、その花びらを湯船の表面へと、ちょんと浸してみた。
(……変化なし。溶ける気配も、変色する気配もないわね)
引き揚げてじっくりと観察したが、花びらはみずみずしさを増しただけで、傷一つついていなかった。私は安堵の息をつき、その花を捨てるのも忍びなかったので、湯船の縁に設けられていた小さな「石のくぼみ」へとそっと生けた。
私は息を呑み、右手の指先をほんの少しだけ、お湯の表面へと差し入れた。
「……あ」
その瞬間、指先から脳へと伝わってきたのは、衝撃的な快感だった。
熱すぎず、ぬるすぎない。まるで人の体温よりほんのわずかに高いだけの、奇跡的な適温。
何より驚いたのは、その「質」だった。
先ほど飲んだ、あの絶品のエメラルドグリーンのポタージュスープよりも、さらに滑らかで、柔らかく、心地よい……まるで極上のシルクを溶かし込んだローションのような、肌に吸い付くトロトロの感触。
指先から伝わる圧倒的な「心地よさ」が、私の全身の警戒心を一瞬で溶かし去っていく。
自分でも気づかないうちに、私の身体はまるで吸い寄せられるように、自然と浴槽のステップへと足をかけていた。
静かな水音を立てて、私はゆっくりと湯船の中へと身を沈めていく。
湯船の縁に腰を掛け、静かに足先から浸かっていく。揺らぐ湯面を見つめると、光の反射によってどこかトロリとした重みのある影を描いている。気泡ひとつ立たない穏やかな水面は、まるで上質なオイルを満たした鏡のようだ。
湯口に近づくと、ふわりと鼻腔をくすぐるのは、甘く柔らかな微かな硫黄の残香と、濡れた木々と大気が織りなす清らかな薫香。刺激的な臭気は一切なく、深く息を吸い込むたびに胸の奥まで温かな蒸気が満ちていき、呼吸そのものが深く、深く深呼吸へと誘われていく。
肩まで完全に湯に身を沈めると、体に触れるのは角という概念をすべて削ぎ落としたかのような、圧倒的なまろやかさ。お湯が皮膚に触れたというよりも、あたたかな空気の層に優しく包み込まれたかのような、抵抗感の全くないアプローチで身体を迎えてくれた。
湯の中でゆっくりと呼吸を整え、そっと腕を持ち上げてみる。肌の表面を滑り落ちる湯滴は、水玉となって弾けるのではなく、透明なフィルムのようにすーっと皮膚に添いながら流れていく。そのまま手足をゆるやかに動かすと、水流が起きても刺激は一切なく、お湯が密度の高い重みを伴って肌の上を滑り降りる。まるで厚みのある上質なシルクのベールを何層も重ねて纏っているかのようだ。
さらに深く体を沈め、目を閉じて全身の力を抜く。湯の温もりとなめらかさが全身のすみずみにまでじんわりと浸透し、固くなっていた首筋や肩の筋肉が、温かい液体のなかでゆっくりと解きほぐされる。湯の中で指先をすり合わせてみると、自分の皮膚そのものが湯の質感を吸って柔らかく変化したかのように、今まで感じたことのない滑らかな心地よさで擦れ合う。
湯から立ち上る微かな湯気と優しく穏やかな香りに包まれながら、湯の密着感と浮遊感が交差していく。次第に「どこまでが自分の肌で、どこからがお湯なのか」という境界線すら曖昧になり、身体全体が湯の優しさとひとつになって溶けていく感覚に囚われたのだ。
体、心、魂までもが包み込まれていく。
「よきかな」
心の奥から、深い快楽の吐息が漏れた。
前世で温泉の元を網羅した私でも認める、逸品(お湯)だった。




