洗礼の泡と漁
「いったたたたたた! 痛い痛い痛い痛いっ!!」
森の静寂を切り裂いたのは、私の情けない悲鳴だった。
泣き叫びながら、私は目の前にある巨大な樹木の幹に開いた小さな穴と格闘していた。
何かに攻撃されたわけでも、毒針に刺されたわけでもない。
夕食の食材を確保しようと、思い切り木の中に腕を突っ込んだはいいものの、腕の肉が引っかかって抜けなくなってしまったのだ。
「うそでしょ……っ! なんで入る時はすんなり入ったのに、抜けないのよ!? 抜けて、お願いだから抜けてぇぇええっ!」
前世の記憶を合わせても、木の穴に腕が嵌まって身動きが取れなくなるなんて間抜けな経験は一度もない。足を突ん張らせ、顔を真っ赤にして必死に腕を引き抜こうとするのだが、木肌はまるで私の腕を掴んで放さないかのように「キュッ」と締め付けてくる。
(ダメ、このままじゃ一生この木と合体したまま、さっきジェントルが冗談で言ったとは思えない、生きたまま虫に食われる未来しか見えない……っ!)
そんな最悪の想像が頭を駆け巡り、パニックは最高潮に達した。
「火事場の馬鹿力ぁぁぁあああああっ!!」
火事場どころかただの自滅なのだが、私は持てる全身の筋力を右足一本に集中させ、木の幹を思い切り蹴り飛ばした。
スポーーーーーンッ!!!
「ひゃああっ!?」
スポイトが抜けるような間抜けた音と共に、私の腕は無事に穴から解放された。
しかし、反動の勢いは留まることを知らない。私は空中で激しく一回転し、背後生い茂っていた「何か」に向かって豪快に倒れ込んだ。
「痛たた……うう、お尻が……」
なんとかクッションらしきものに受け止められ、骨折は免れたようだ。
だが、次の瞬間、私の全身を襲ったのは、激しい違和感だった。
「ん……? 何これ……あったかい……? ……?」
私が落ち込んだのは、地面に咲いていた直径二メートルほどもある巨大な「真っ白な花」の中心だった。
そして、その花の中央には、花粉――とは名ばかりの、まるで高級ホイップクリームか極上の石鹸泡のような、真っ白でモコモコとした物質が大量に溜まっていたのだ。
ボショッ、パチパチパチ……。
転倒した衝撃で、その白い泡状花粉が一気に弾け、私の全身を包み込んだ。
「ぶはっ! げほっ、な、なにこれぇええ!?」
慌てて飛び起きた時には、もう遅かった。
私の頭から足の先まで、ドレスも髪も、すべてが真っ白なモコモコの泡で覆い尽くされていた。しかもこの泡、一度くっつくと全く落ちない。水分を含んでいるわけでもないのに、ふんわりと私の体に吸着し、異様なまでにボリューム感を増していく。
「ちょっと……何なのこれ! 取れないじゃない!」
手で払おうとしても、泡は手に吸い付いてさらに膨らむだけだ。
私は焦りながら、近くにあった「ツヤツヤとした光沢のある木の幹」へと駆け寄った。漆黒の木肌が、まるで手入れされた姿見(鏡)のように私の全身をはっきりと映し出している。
そこに映っていたのは――。
「……なによこれ」
絶句した。
そこにいたのは、元・公爵令嬢のセレスティアでも、元・日本のOLでもなかった。
全身が頭の先からつま先まで真っ白なモコモコの泡で膨れ上がり、耳のあたりと尻尾のあたりだけが妙に丸く肥大化した……『トイプードル』のような謎の生物だった。
顔の真ん中から目と鼻だけが覗いており、腕を動かすたびにモコモコの泡がパチパチと音を立てる。
「……ぷっ、プードルじゃない……。私、完全にプードルじゃないの……っ!」
あまりの情けなさに、膝から崩れ落ちそうになった。
さっきまで「この森は最悪の魔境だ!」と恐怖にガタガタ震えていたというのに、今の私は全身泡まみれのトイプードルである。
「……ふぅ。泣かない。めげない。私は生き残るのよ……!」
私はぎゅっと拳を握りしめ、自分を奮い立たせた。
前世で、理不尽な上司に書類を突っぱねられ、終電間際のオフィスで一人虚しく残業していたあの夜に比べれば、プードルになるくらいどうということはない。命があるだけ儲けものだ。
私はプードルのまま、再び先ほどの木へと向き直った。
なぜ、私がこんな危険で痛い思いをしてまで木に腕を突っ込んでいたのか。
理由は単純だ。この『名もなき森』には、前世や王都で見たような「川」というものが存在しないからだ。
ジェントルから聞いた話によれば、この森の水脈はすべて地面の下――つまり深層の地下水として流れている。そしてその膨大な地下水は、この森に生える全ての巨大樹の体内を、まるで人間の血管のように、かなりの速さで駆け巡っているのだという。
つまり、木の中を流れる「体内河川」に手を差し込めば、水だけでなく、そこに生息する「魚」まで捕まえられるというわけだ。
「よし……次は絶対に引っこ抜くわよ……!」
私は息を整え、両手に力を込めた。
狙うは、木肌の穴を勢いよく流れる水音。耳を澄ませると、樹皮のすぐ裏側で「ゴォォオオ」と勢いよく水が流れる音が聞こえる。
意を決して、再び穴へと腕を突っ込んだ。
やっぱり冷たい!
木の中を流れる地下水は、氷水のように冷たかった。だが、その激流の中に、確かに「何か」が触れた感触があった。ぬめりがあり、力強く跳ねる生き物の感触。
(捕まえた……っ!)
私は流されないよう、必死でその「何か」を指先で強く掴んだ。
「ぬぐぐ……っ、取れたぁああっ!!」
全身の力を込めて腕を引き抜く。
パシャーンッ!!
激しい水飛沫と共に、私の手から飛び出してきたのは、見たこともない奇妙な生物だった。
長さ三十センチほどの魚の形をしている。けれど、その表面はウロコではなく、ツヤツヤとした緑色の「葉っぱ」のような質感で覆われており、背ヒレや尾ヒレは完全に植物の葉そのものだった。エラからは小さな根っこがウニウニと生えている。
「これ……お魚……よね?」
掴んだ魚は、私の手の中でパタパタと威勢よく跳ねた。
まさに、ジェントルが「木の中の川にいるから捕まえてごらん」と教えてくれた、植物の性質を持つ魚『ココケウオ』だった。
「やった……! 本当に捕れたわ!」
一度コツを掴んでしまえば、元々要領が良い方(自称)の私は早かった。
穴の中に腕を差し込み、水流の波動を感じ取り、魚が通過するタイミングに合わせて指を引っかける。
二匹、三匹、四匹……。
小一時間ほど格闘を続けた結果、私の足元には、なかなかの大きさを持った「植物魚」が、なんと十匹も積み上がっていた。
「ふふふ……大漁、大漁だわ!」
私は近くに生えていた巨大なフキのような葉っぱをちぎり、手際よく簡易的な「かご」を作り上げた。そこに獲れたての魚をぎっしりと詰め込む。全身モコモコの泡だらけなプードル姿で、魚が詰まった緑のかごを抱える私。客観的に見れば、不気味極まりない珍生物だが、今の私には達成感しかなかった。
「ジェントル! 見て! 魚がこんなに捕れたわよー!」
私はウキウキとした足取りで、古代樹の幹へと向かった。
そこではジェントルが、日当たりの良い場所でゆったりと佇んでいた。
彼は巨大な二本の蔓(手)を腰の後ろで組み、顎(花)を太陽に向けて「シャキーン」と胸を張るような、謎のポーズを決めている。
いわゆる、『日光浴(光を食す)』の最中らしい。
『おやおや……? その声はお嬢さんですか? 随分と……愛らしいお姿になられましたね』
ジェントルが振り返り、私を見るなり、巨大な蕾をヒクヒクと揺らした。
「笑わないでちょうだいね。花の中に落っこちて、泡だらけになっちゃったのよ……。それより、ほら!」
私は差し出したかごを見せた。十匹の魚たちが、かごの中で元気に跳ねている。
ジェントルは巨大な顎を近づけ、感心したように頷いた。
『ほう……! 短時間でこれほど捕まえるとは、お嬢さんは実に要領が良いですね。ええ、間違いありません。それはすべて毒のない、美味しく召し上がれる魚ですよ』
「本当!? よかったぁ……!」
私は胸を撫で下ろした。
毒魚だったらどうしようかと一瞬不安だったのだ。




