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第98話:不純な安堵 —— 51歳、現場の「棚卸し」と震える腕

田中がボロ屋の扉を勢いよく開けた。

蝶番が悲鳴を上げ、スラムの淀んだ熱気が室内に流れ込む。肩で荒い息をつき、全身は魔物の返り血と、粘り気のある泥にまみれていた。あの広大な森を、喉が潰れるほど名前を叫び、這いずり回るようにして捜し歩いた疲れが、一気に顔に噴き出していた。


そこには、三人の姿があった。

自分たちが「足手まとい」と蔑んでいた男が、森の主たちを超高圧の水流で「清掃」した光景を、境界線の陰から見てしまった三人が、魂を抜かれたような顔で固まっていた。


田中は三人の姿を一人ずつ、舐めるように確認した。

営業マン時代、納品された精密機器に不備がないか検品した時よりも鋭い目つきだ。欠けた指はないか、致命的な傷はないか。全員が五体満足でそこに座っているのを見た瞬間、田中の膝からふっと力が抜けた。


「……お前ら、お前らなぁ……!!」


田中は膝を震わせながら、三人のもとへ一歩踏み出した。

そして、泥まみれの体のまま、ザック、ミア、ニコの三人を、まとめて力任せに抱きしめた。


「ヒッ……!」


唐突な質量と、泥と鉄の匂いに、ニコが短い悲鳴を上げる。ザックとミアも、突然のことに全身を硬直させた。

今の田中からは、凄まじい熱気と、尋常ではない汗の匂いがした。51歳の肉体が、文字通りオーバーヒートを起こしている。

だが、彼らを包み込むその腕は、驚くほど温かく、そして——激しく震えていた。


「……どこをほっつき歩いとったんや。報連相ほうれんそうの徹底を教えたやろ。……どれだけ……どれだけ、捜索コストをかけさせる気や。この、バカたれが」


目の前に三人がいるという「現物確認」を噛み締めるように、田中は震える声で絞り出した。

(あんな凄惨な現場にこいつらが居たら、完全な『全損』やないか……。損切りなんて、できるわけないやろ……)

田中は、自分の「最悪の予測」が外れて、彼らが勝手に、無傷で帰り着いていたことに心底から安堵していた。


「……田中さん、ごめん。俺たち、調子に乗って……。おっさんは、何もできないって、勝手に決めつけて……」


ザックが田中の胸板に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らす。

ミアとニコも、その太い腕の中で、自分たちがどれほど大きな「支え」を蔑んでいたかを痛感していた。

だが、田中はそれを都合よく聞き流した。まさか自分が魔物をミンチにしていた姿を、こいつらが見ていたとは微塵も思っていない。


「……当たり前や。俺は『蛇口』やぞ。水出す以外に何ができんねん。そんなことより、お前ら、あんな危険な場所(境界線)には近づいてへんやろな? 俺が帰りに寄ったら、魔物がめちゃくちゃに解体されて山になっとったぞ。……あんな『現場』、お前らみたいなひよっこが見たら即座にリタイアや。トラウマで一生再起不能(B品扱い)になるぞ」


三人は顔を見合わせ、さらに震え上がった。

自分たちを「ひよっこ」と呼び、優しく抱きしめているこの「温かいおじさん」が、さっきまで無表情で高圧洗浄をぶっ放していた張本人なのだ。


「ええか、今日から『創業メンバー』なんて甘っちょろい呼び方は廃止や。……お前らは今日、俺を死ぬほど心配させた。その『未報告の無断欠勤』、死ぬ気で働いて埋め合わせてもらうぞ。明日からのノルマは倍や。俺の言うことに逆らうのは、十年前の領収書を出すのと同じくらい許さんからな!」


「「「……は、はいっ! すみませんでしたっ!」」」


三人の返事が揃う。

田中はふいっと腕をほどくと、乱暴に鼻を啜りながら窓の外に視線を逸らした。

(ったく……心臓に悪いわ。こいつらまでいなくなってみろ。俺がここで毎日毎日、必死に『蛇口』やってる意味がなくなるやないか……)


田中さんの胸にあるのは、崇高な理念ではない。

あの日、嫁に刺されて自分の人生を一方的に終わらされた田中にとって、今の生活は、ようやく指先の水一つでゼロから立ち上げた「新しい商売」そのものだ。その重要な「構成員アセット」が、理不尽な理由で欠損することだけは、社畜のプライドにかけても絶対に許せなかった。


「……おい、いつまで泣いとんねん。ニコ、顔洗ってこい。ミアは在庫の整理。ザックは……お前は飯の準備や。今日はもう、特損(特別損失)計上して豪華なメシにするぞ。……ただし、明日からは地獄の研修期間リカバリープランの始まりやからな。覚悟しとけよ」


三人は顔を見合わせ、今度は笑った。

刺されたあの日、自分の人生をあっけなく手放すしかなかったおっさんは、今、スラムの片隅で「自分の管理下にある連中」を力任せに抱き直し、再び歩き始めた。

不純で、泥臭く、しかし誰よりも折れない「社畜の魂」を、指先の水に込めて。

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