【第89話:決算 —— 泥の中の祝杯】
ギルドの薄暗い窓口で、受付嬢が事務的に差し出してきたのは、下水清掃の正当な報酬、銀貨5枚。
そして、あの偏屈な古物商の店主を「商品価値」という名の論理でねじ伏せ、命のやり取りに近い交渉で毟り取った、魔導部品の換金代、銀貨12枚。
それらを合わせ、田中の手元には合計17枚の銀貨が、確かな重みを持って鎮座していた。
スラムの安宿。油の切れたランプが煤を上げ、壁には四人の影が長く伸びている。その中心にあるガタついたテーブルに、田中はあえてその銀貨を一枚ずつ、金属音を響かせながら並べていった。
「……おい、田中。……これ、マジかよ。……銀貨が、17枚……?」
ザックが、まるで未知の魔獣の卵でも見るような、怯えすら混じった目で銀貨を見つめている。
数日前、路地裏で飢え死にかけていた自分たちを、この「得体の知れない若造」が拾った時、自分たちの全財産は、明日をも知れぬ銅貨数枚しかなかったのだ。
「……一月は食える。いや、贅沢しなきゃ三月は……」
震える声で、必死に自分の知る限りの「大金」を当てはめようとするザック。だが、22歳の端正な顔立ちに51歳の商社員の魂を宿した田中は、鼻先で冷たく笑った。
「……ザック、お前、計算が甘すぎるぞ。ええか、よう聞け。……この銀貨17枚は、銅貨に直せば1700枚やぞ」
田中は銀貨を一枚、指先で弾いて回転させた。鈍い銀色の光が、子供たちの瞳に反射する。
「……お前らが今までのように、一日銅貨5枚で、休みもなく泥水を啜るようにして食いつないできたんなら、単純計算で340日分。……つまり、およそ一年近く、四人が一切働かんでも誰も飢えずに過ごせる額や。 これだけの『資産』を、俺たちは今日一日、ドブを浚って手に入れたんやぞ。お前らが今まで費やしてきた『絶望の時間』を、俺は一日で買い戻したんや」
「い、一年近く……!? 一年、誰も死ななくていいのかよ……!」
ザックだけでなく、ミアもニコも、あまりの金額の重みに絶句し、肩を震わせていた。スラムの住人にとって「明日の食い物」ではなく「来年の生存」が約束されるなど、神の奇跡に近い。
だが、田中は甘い幻想を許さない。彼は冷徹な商社マンの目で、まだ幼さの残る三人の仲間を射抜いた。
「……勘違いすな。これは『働かんでええ金』やない。次の大きな商売を仕掛けるための『軍資金』や。ドブ浚いで一生を終えるつもりか? 泥水を啜る生活は今日で終わりや。だが、ここからが本当の勝負やぞ。……まずは、その薄汚い格好をなんとかし、まともな装備を揃える。投資や。ええな?」
田中は、悲鳴を上げる腰を叩きながら立ち上がった。ブートキャンプ並みの過酷な労働で筋肉はズタズタだが、脳内ではすでに次の「仕入れ」と「販路」のフローチャートが、数億規模のプロジェクトを回していた頃のように鮮明に組み上がっている。
「……さあ、約束や。今日は、厚切りの肉を腹一杯食うぞ。 ……もちろん、店に入る前に全員、俺の魔力の水でしっかり『仕上げの洗浄』を済ませてからな。異臭を放つ客に、美味いもんは出んからな。商売の基本は、まず自分の身だしなみからや」
数刻後。スラムでも指折りの食堂「豚の足跡」の、一番奥の大きなテーブル。
そこには、見たこともないほど分厚く焼かれた野獣のステーキが、肉汁を滴らせて山積みにされていた。
唯一の成人である田中の前には、泡の立つ冷えた大ジョッキのエール。
そして、まだ酒を飲むには早すぎるザック、ミア、ニコの三人の前には、田中が特別に注文した、蜂蜜をたっぷりと溶かし込んだ黄金色の果実水が置かれた。
「……美味い、田中……! こんなに甘いの、生まれて初めてだ……!」
ニコが顔をくしゃくしゃにして笑い、大切そうに果実水を啜る。その横で、ザックとミアも、まるで一世一代の勝負に挑むかのような真剣な顔で、肉に食らいついていた。
かつて商社時代、銀座の高級店で数万円のステーキを転がしていた田中だったが、今、目の前でガツガツと肉を食らう若者たちを見ている方が、よほど腹が満たされるのを感じていた。
田中は、魔法で一点の曇りもなく清浄に洗い上げた自分の手で、ナイフとフォークを使いこなし、静かに肉を咀嚼した。
(……商社マン・田中。……異世界でも、なんとか『黒字』でやっていけそうやな)
冷えたエールを喉に流し込み、51歳の精神を持つ男は、満足げに長い吐息を漏らした。
スラムの夜は冷たく、暗い。
だが、四人のテーブルだけは、明日への希望という確かな灯火で、どこまでも明るく照らされていた。




