【第86話:ボトルネック —— 汚泥の決壊と静かなる浄化】
「……ここか。一番の『詰まり』は」
田中のランプが照らし出したのは、数本の排水路が合流する巨大なジャンクションだった。そこには、王都の贅沢な暮らしが吐き出した残飯の油と繊維クズ、そして数ヶ月分の**「排泄物」**が混じり合い、粘り気のある巨大な壁となって通路を完全に塞いでいた。
「おい、田中……これは無理だろ。これ、もう石じゃねえか。……臭いだけで頭が割れそうだ!」
ザックが絶望的な声を出す。実際、その汚物の壁は湿った嫌な光を放ちながら、そこに居座っていた。だが、田中が危機感を持ったのはその「硬さ」ではない。
(……空気が重い。……腐敗した卵のような、鼻の奥が痺れる匂いや……)
脳裏をよぎるのは、商社マン時代、手違いで放り込まれたPMC(民間軍事会社)のブートキャンプの記憶だ。泥を啜りながら罵倒され、泥沼を這いずり回ったあの日々。
(あの時はただの『忍耐』やったが……。今の俺には、この世界の『魔力』が1割だけ通っとる。あの時、身体に叩き込まれた『泥の中での合理的な動き』に魔力のブーストを乗せれば、岩のように固まった汚物だろうが、物理的な衝撃で一気に突き崩せるはずや……)
田中は1割の魔力を「感知」に回した。微細な魔力の糸が、自分たちの膝下の高さまでドロリと澱んでいる「死の空気」の層を捉える。
「……ザック、ミア、ニコ。一歩も動くな。地面に近い空気は吸うな。……一撃で決める。時間をかけたら、ガスで俺らが先に落ちるぞ」
田中の必死の形相に、三人が凍りつく。田中は汚れたタオルを口に巻き、1割の魔力を右腕の「一点」に凝縮させた。
「……せやっ!!」
咆哮と共に、鉄の棒が汚泥の壁の「応力点」を捉えた。
魔力が爆ぜ、衝撃が深部へと浸透していく。メキメキと地鳴りのような音が響き、次の瞬間、巨大な汚物の塊が内側から爆散した。
「……今や! 全員、壁際に張り付け!!」
バキィッ! という破壊音と共に、溜まりに溜まって発酵していた数千トンの下水が、決壊したダムのように溢れ出した。同時に、堆積物の奥に閉じ込められていた大量の腐敗ガスが、黒い霧となって噴き出す。
「うわあああかっ!?」
ザックたちが悲鳴を上げる。だが、田中は濁流に足を取られそうになりながらも、その「流れ」の中に目を凝らした。汚水と共に流れてくるのは、不浄な物ばかりではない。
「……ミア! その流れてきた布袋、掴め! ……ニコ! 網を離すな!」
激流が収まり、ガスが換気口へ吸い込まれていく頃、そこには半年ぶりに正常な流れを取り戻した排水路と、頭から爪先まで生々しい排泄物と汚泥にまみれ、猛烈な異臭を放ちながらも、必死に獲物を抱えた四人の姿があった。
「……ゴホッ、ゲホッ……! ……の、喉が……」
ニコが膝をつき、激しく咳き込んだ。有毒ガスをまともに吸い込み、気管が焼けるような痛みに襲われている。
(……アカン。放置したら肺炎か、最悪、肺水腫や……)
田中は即座に動いた。だが、今の自分たちは全身汚物そのものだ。このまま触れれば、回復どころか感染症でトドメを刺しかねない。
「……ニコ、動くな。……ザック、ミア、お前らもや。……まずは『洗浄』や」
田中は1割の魔力を指先に集中させた。精密な魔力操作で、広範囲を優しく包み込む「高圧洗浄」のイメージ。
シュッ、と音を立てて指先から噴き出した清浄な水が、まずは自分たちの手首から先を、そしてニコの顔周り、さらには自分を含めた全員の顔と全身にこびりついた汚物を一気に洗い流した。
「……ふぅ。……ニコ、これ飲める水や。ゆっくり含んでみ」
田中は、自分の手も顔も清潔になったことを確認してから、汚れを落としたばかりの指先からポタポタと滴るように「回復の魔力」を混ぜた水をニコの口元へ運んだ。周囲に魔法だと悟られないよう、あくまで「うがい用の水」を分けてやっているような自然な動作。
「……あ、……冷たい……。……喉のヒリヒリが、消えていく……」
ニコの顔に生気が戻り、全員の「表層の汚れ」が最低限落ち、何より自分たちの「手」が清浄になったことを確認して、田中はようやく不敵に笑った。
「……さて。ザック、その袋、中身見せてみ」
ザックが革袋をぶち開けるが、中身は汚水で腐りきった「真っ黒な紙クズの塊」だった。
(……重石付きの書類。……これ、相当ヤバい奴らの持ち物やな。今の俺らに、こういう『闇』は扱いきれん)
田中は冷静に、その不気味な袋を再び水の底へと蹴り落とした。深追いは厳禁だ。
「……ザック、それ以上触るな。これは即、廃棄や。……それよりニコ、ミア。網の底をよう見ろ。……なんか、さっきの泥とは手触りが違うもんが混じっとるはずや」
田中が指差した先には、汚物の中に紛れて、鈍い光を放つ金属の塊がいくつか転がっていた。田中はすかさず、指先から「洗浄水」を網に向かって放ち、こびりついた排泄物を剥ぎ取っていく。
それを見たザックが、焦ったように声を上げた。
「おい田中、何してんだよ! 魔法なんて使ってねえで、さっさとこの場を離れようぜ! 貴重な水だろ、もったいねえ!」
田中は、手を止めずにピシャリと言い返した。
「……アホか。これをクソまみれのまま持ち歩けるか。……ええかザック、よう考えろ。地上に戻っても、こんな格好で共同井戸なんか使ってみろ。一瞬で殺されるぞ。 水路で、俺が出す水で落とせるだけ落としていくんや。……ほら、洗ったら出てきたぞ」
現れたのは、磨り減った銀のフォーク、そして何かの折れた「金属の部品」のようなものだった。田中はそれを清潔になった手で慎重に拾い上げ、カゴへと収めた。
「……なんや分からんが、その『重み』はただの鉄屑やない気がする。……ええか、怪しいもんは全部、とりあえずカゴにぶち込んどけ。……地上の隅っこで、もう一度魔力の水で徹底的に洗浄してから検品や。今は一刻も早く、ここから脱出するぞ!」
回復水で体調は整え、現場での一次洗浄も済ませた。
「……行くぞ。……地上へ戻ったら、人のいない場所で最後の一押しまで洗い落とす。……それから報酬を受け取って、今日は奮発して温かいメシや!」
「……おう、分かったよ! 殺されるのは御免だ、ここで綺麗にしていこうぜ!」
ザックたちの明るい声が、下水道の奥に響く。
51歳の元商社マン、田中。
彼は王都の「闇」を賢明にスルーし、泥の中から「確実な明日」を掴み取っていた。




