【第85話:ダウンストリーム —— 泥中の選別】
王都の華やかな喧騒が、重い鉄格子の蓋を閉じた瞬間に遠のいた。
代わりに鼻腔を貫いたのは、発酵した生ゴミ、排泄物、そして鼻の奥が痺れるような硫黄の混じった「腐敗の極致」とも言える悪臭だ。
「……う、うぇっ……。……田中、これマジでやるのかよ……。鼻がもげそうだ……」
ザックが鼻を合羽の袖で覆い、今にも吐きそうな声を出す。
暗闇の中、ギルドから借りた魔導ランプのぼんやりとした青白い光が、ぬらぬらと光る下水道の壁を映し出していた。足元には、数十年分の油脂が固まり、ヘドロと混じり合って「コンクリート」のように硬化した堆積物が、水路を完全に塞いでいる。
「……黙って動け。口を開けると、変なガスを吸い込むぞ。……それとザック、足元をよく見ろ。滑って転んだら、その瞬間に『全身クソまみれ』や。……それだけは避けたいやろ?」
田中は冷静だった。
この状況、既視感がある。
かつてのブートキャンプ、最終試練の3日目。大雨で氾濫した訓練施設の排水溝を、素手とスコップだけで開通させられたあの地獄。結局ついていけずにクビになったが、あの時、狂った教官に叩き込まれた「効率的な泥の掻き出し方」だけは、脳ではなく脊髄が覚えていた。
「……ミア、ニコ。お前らは上流側で、俺が崩した塊をこの網ですくい取れ。……いいか、石ころ一つ、木片一つ見逃すな。……ザック、お前は俺の横で、崩したそばから棒で突いて流れを確保しろ。……行くで」
田中は、手にした鉄の棒を構えた。
普通の冒険者や清掃業者なら、これをただ「力任せ」に振り下ろすだろう。だが、田中は違う。
(……一箇所を叩いても無駄や。……構造物の『応力』が集中しとる点を見極めなあかん……)
商社マン時代、建築資材の検品や物流倉庫の設計図に立ち会った経験が、泥の塊を一つの「構造体」として捉えさせる。
そして、彼はゆっくりと息を吐き、1割だけ開放された魔力を右腕に集めた。
(……1割……。……細い糸のような魔力を、棒の先端に一点集中させる……)
――ドォォォォォン!!
一閃。
ただの突きではない。魔力によって加速された衝撃が、半年間ビクともしなかった汚泥の岩を内側から爆砕した。
「……なっ!? 崩れた……!?」
ザックが絶句する。
魔法使いが火炎魔法で焼いても表面が焦げるだけだった堆積物が、蜘蛛の巣状に亀裂を広げ、次の瞬間には一気に崩壊を始めた。
「……よし、今や! ザック、突け! ミア、ニコ、網を入れろ!」
田中の指示に、三人が弾かれたように動く。
決壊した汚泥の波。その中から網に掛かったのは、金貨でも宝石でもなかった。
「……田中、何もねえよ! あるのは、ボロボロの革切れと、錆びた鉄の破片……。あと、変なヌルヌルした骨だけだ!」
ニコが落胆した声を上げる。
田中はランプを近づけ、その「ゴミの山」をじっと見つめた。正直、今の彼にはこれが高級素材かどうかなんて判別できない。だが、51年の社畜人生で培った「鼻」が動く。
(……鑑定なんてできん。……だが、王都の金持ちが捨てるゴミには、必ず『資本』の残滓が混じる……)
田中は泥まみれの顔で、確信に満ちた(フリをした)笑みを浮かべた。
「……ニコ、捨てんな。……その『革切れ』、よく見ろ。普通の牛革より目が細かい。……それとザック、その『鉄の破片』もや。断面が妙に滑らかやろ? これ、ただの鉄やない可能性がある。……いいか、形が不自然なもんは、全部カゴに入れとけ」
「えぇ……? こんなのただのゴミだろ……?」
「……ゴミかどうかを決めるのは、俺らやない。『市場』や。……いいか、この世界には、こういうジャンク品を欲しがる変わり者の職人や、安価な素材を求める駆け出しの魔導師が必ずおる。……それを繋ぐのが『商売』や。……いいから、怪しいもんは全部回収や!」
田中は再び棒を構える。
黄金のスプーンなど、そう簡単には流れてこない。
だが、この広大な王都が吐き出した「文明の残りカス」を一つずつ拾い上げ、付加価値を付けて売り捌く。
それが、51年の社畜人生で培った、田中の「商売」の真髄だった。
「……次行くで。……この奥に、もっとデカい『不法投棄(利権)』が眠っとるはずや」
下水の臭気の中、田中の眼光だけが、獲物を狙う商社マンのように鋭く光っていた。




