【第84話:マーケット・リサーチ —— 泥の中のブルーオーシャン】
「……さて。……初仕事、探そか」
鉄のプレートを首から下げた田中は、ギルドの掲示板の前に立った。
そこは、欲望と焦燥が渦巻く「異世界のハローワーク」だ。ランクの高い冒険者たちは、掲示板に並ぶ依頼書を慣れた手つきで吟味しているが、一方で、掲示板を素通りして受付の列に並ぶ若手も多い。
「なあ、田中。……掲示板なんて見たって俺らにはわかんねえよ。あんなの、ただ黒いシミが並んでるだけだろ。受付の姉ちゃんに『なんか稼げる仕事ねえか』って聞くのが一番早えんだ」
ザックが、掲示板の前で足を止めた田中に、困惑気味の声をかける。
彼らにとって、この壁に貼られた大量の紙は、自分たちを拒絶する「呪文の羅列」でしかない。ギルドの依頼書はあくまで「契約」を前提とした公的文書だ。そこには報酬額と条件が冷淡な筆致で書き連ねられている。
田中はふと、三人の顔を見て、改めてこの世界の残酷な格差を実感した。
(……ああ、そうか。ザックたちには、掲示板から情報を『選ぶ』権利すら与えられてへんのか……)
田中は無意識に、かつて後輩を指導した時の「情報の非対称性」へのもどかしさを思い出した。だが、今はそれを逆手に取る。
(……情報の独占は、利益の独占や。今はまず、俺がこいつらの『眼』にならなあかんな……)
田中の「鑑定(商社マンの眼)」は、掲示板の最下層、隅っこでホコリを被っている案件を捉えた。事務的な細かい文字がびっしりと並び、誰にも見向きもされていない「死に筋」だ。
「……これや。ザック、ミア、ニコ。これで行くで」
田中がその紙を指差すと、ザックは眉根を寄せて、その意味の分からないシミの塊を気味悪そうに覗き込んだ。
「おい、田中。……それ、何の依頼だ? 読めもしねえのに、そんな不気味な紙選ぶなよ。受付の姉ちゃんに聞いてからにしようぜ。……まさか、めちゃくちゃ強い魔物の討伐じゃねえだろうな?」
「……安心せえ。魔物どころか、動くもんはネズミくらいしかおらん場所や。……『王都中央排水路の詰まり解消』。……簡単に言えば、下水道の掃除やな」
「…………は?」
ザックの顔から、一瞬で生気が失われた。隣のミアも、信じられないものを見るような目で田中を凝視している。
「げ、下水道掃除……!? おい、本気かよ田中! あそこは『死人の道』だぞ! 去年、スラムの知り合いが金に困ってギルドから無理やり押し付けられたんだ。……戻ってきた時は体中に発疹が出て、一週間も寝込みやがった。魔物は出ねえが、有毒ガスは溜まってるし、何より臭すぎてまともな人間は三日も持たねえ。だから専門の清掃業者ですら匙を投げて、もう半年も放置されてる『呪いの案件』だ!」
文字は読めずとも、彼らの情報網には「避けるべき不人気仕事」の記憶が刻まれている。ミアも「嫌だよ、そんなの……。せっかく古着屋でマシな服を手に入れたのに、またあんな臭いがつくのは嫌……」と、新調したばかりの茶色のチュニックの裾をぎゅっと握りしめた。
だが、田中は穏やかに、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「……ザック、ミア。商売の鉄則を今から教えたるわ。耳の穴かっぽじってよー聞いとけ。……『他人が嫌がる場所にこそ、独占利益がある』んや」
「ブルー……なんだって?」
「……競争相手がおらん、一人勝ちの市場っちゅうことや。ええか、お前らが言う通り、ここは誰もやりたがらん。その結果、ギルドは必死や。だからこの依頼書には、報酬の銀貨5枚にプラスして、『副産物の所有権』なんていう、普段ならあり得ん破格の特約が付いとる。文字が読めれば、これが『宝の地図』に見えるはずなんや」
田中は依頼書を剥ぎ取ると、直接カウンターへと向かった。
不安げな三人を感じながら、田中は自分の四肢の感覚を確かめるように軽く足踏みをした。
(……それに、今の俺には……あの『地獄の1ヶ月』の貯金があるからな……)
脳裏をよぎるのは、商社マン時代、手違いで放り込まれたPMC(民間軍事会社)のブートキャンプの記憶だ。泥を啜りながら罵倒され、睡眠不足と空腹の中、泥沼を這いずり回ったあの日々。
(結局は、体力もセンスも全然ついていけなくてクビになったが……その後、相手の商社のミスで入隊させられた事実が明るみになってな。その不祥事を揉み消すための交渉材料にして、うちの会社は大儲けしたわ。……あの時はただの『忍耐』やったが……今の俺には、この世界の『魔力』が1割だけ通っとる。あの時、這いつくばりながら身体に叩き込まれた『泥の中での合理的な動き』に魔力のブーストを乗せれば、岩のように固まった汚物だろうが、物理的な衝撃で一気に突き崩せるはずや……)
理不尽な泥沼ですら、最後には利益に変えてみせる。それが田中の信条だ。
「……おい、受付嬢さん。これ、受注や」
田中が依頼書をカウンターに置くと、受付嬢が目を丸くして顔を上げた。
「……え、ええ……? 中央排水路ですね? ……本当に、本気ですか? あそこは魔法使いの火炎魔法でも崩せなかった難所ですよ? それに……その、お子さんたちまで連れて……」
「……構わん。時間は資産や。もたもたしてると、他の『変わり者』に取られるかもしれんからな。あと、ギルドの備品で『防水の合羽』と『長い棒』、4人分貸し出しできるか? 経費として後で報酬から差し引いてええから」
受付嬢の視線を背に、田中は三人を振り返った。
「……よし、ザック、ミア、ニコ。これは『ドブ掃除』やない。『お宝発掘』や。ええか、王都の金持ちが流した宝石や金貨……それを全部、俺らの懐に入れる権利を今、手に入れたんや」
「……宝石……?」
末っ子のニコが目を輝かせ、ザックとミアもようやく顔に期待が混じり始める。
「……行くぞ。泥の中から、俺らの『資本金』を掴み取りに行くで。あ、それとな。この仕事が終わったら、夜は『読み書き』の講義や。俺の仲間が字も読めんとか、これからの商売にならんからな」
「げぇっ!? 勉強なんて嫌だぞ!」
ザックの叫びを笑い飛ばし、田中は王都の華やかな大通りの真下――暗く、淀んだ「地下の迷宮」へと、迷いのない足取りで踏み出した。
51歳の元商社マン。
異世界での「営業1課」の初仕事。その舞台は、汚泥にまみれたフロンティアだった。




