【第73話:過負荷(オーバーロード) —— 51歳の社畜、散る?】
「……あと、30秒よ。田中、貴方の意地を見せなさい」
セレス様の冷徹な宣告と共に、室内の魔圧は臨界点に達した。
田中の首元で、帝国の呪印が真っ赤に脈動し、警告音のような高周波を放つ。セレス様が注ぎ込み続ける氷結魔力と、田中が内側から必死に操る水圧が、首輪という狭い金属の器の中で、逃げ場を失い狂い踊っていた。
(……あ、……あかん……。……これ……制御不能……や……!)
田中の視界が、真っ赤に染まる。
肉体こそ22歳のままだが、中身は51歳の熟年社畜。自身の魔力回路が、パキパキと音を立てて砕け散る感覚に、本能的な恐怖が走る。
「物理的な解除」を試みる奴隷商のバールが、首輪の隙間に深く食い込み、最後の一押しを加えたその瞬間——。
「……あ……」
田中の口から、声にならない吐息が漏れた。
首輪の内部で、三つの異なる魔力が完全に混ざり合い、臨界を超えて真っ白な光を放ったのだ。
ドォォォォォォォォォォォン!!
凄まじい衝撃波が客間を粉砕した。
高級な木材で作られた家具は木っ端微塵に砕け、壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走る。爆風と共に、大量の水蒸気が視界を奪い、部屋全体が真っ白な霧に包まれた。
「……はぁ、……はぁ……。……田中? ……返事をしなさい、田中!」
セレス様の鋭い声が、静まり返った部屋に響く。
霧がゆっくりと晴れていく中、そこにあったのは——。
無惨にひしゃげ、バラバラに飛び散った「奴隷の首輪」の破片。
そして、血溜まりの中に突っ伏し、ぴくりとも動かない田中の姿だった。
彼の首筋からは、かつてあれほどまでに輝いていた魔力の光が完全に消失し、肌は土気色に変色している。
「……セレス様。……心音、停止。魔力反応……皆無です。完全に『壊れ』ましたわね」
アリスが汚れを嫌うように数歩離れた位置から、冷淡に告げた。
セレス様は、その場から動けずにいた。
自分の「私物」を完璧に直そうとした結果、自らの手で粉々に打ち砕いてしまったという、貴族としての自尊心を逆なでするような事実。
「……不愉快だわ。……あんな、安物の首輪ごときに……私の魔力が負けるなんて……!」
セレス様は震える声でそう絞り出し、持っていた扇を床に叩きつけた。
彼女にとって、田中の死は悲しみではなく、「自分の思い通りにならなかった」という屈辱に近い。
5年間追い続け、ようやく手中に収めたはずの「給湯器」が、修理の途中でゴミになった。その事実は、彼女の完璧主義に深い傷をつけた。
「……もういいわ! アリス、行きましょう! こんな汚らしい死体、見てるだけで虫唾が走るわ!」
「ええ、そうですわねセレス様。……あぁ、ドレスの裾に返り血が。最悪ですわ。……おい、奴隷商! 後はこのゴミと一緒に、適当に始末しておきなさい。……行くわよ!」
二人の令嬢は、一度も振り返ることなく、激しい足音を立てて部屋を去った。
彼女たちにとって、価値を失った道具は視界に入れる必要さえない。
静まり返った室内。
「……ひ、ひぃぃ……どうすれば……どうすればいいんだ……!」
奴隷商が狂ったように頭を掻きむしり、震える手で田中の腕を掴む。
その時、血溜まりの中で伏したまま、田中の意識は深い闇の底にいた。
(……あ、……あぶな……。……間一髪……やった……)
実は、爆発の直前。
田中は死を覚悟した瞬間、ある「賭け」に出ていた。
自身のスキル『指先から水』を、体外ではなく、細胞の一つ一つに浸透させ、体内の魔力密度を極限まで希釈したのだ。爆発の衝撃を体内の「水」で受け流し、魔力回路を一時的に「仮死状態」に追い込むことで、セレス様たちの探知を欺く。
かつて、厳しい納期遅れを「インフルエンザ(偽造診断)」で乗り切り、追及の手をかわした51歳の社畜のサボり技術が、異世界で命を救った瞬間だった。
(……でも……もう……指一本……動かへん……。あとは……このおっちゃんが……どっかに……運んでくれるのを……待つしか……)
田中は、遠のく意識の中で、奴隷商が慌てて大きな麻袋を用意する音を聞いていた。
首輪は外れた。だが、自由への切符は、今まさに「ゴミ」として処理されようとしている自分自身の身一つ。
(……セレス様……。……次は……もっと丈夫な……ええ給湯器……買うて……な……)
51歳の精神を宿した22歳の肉体は、ぐったりと力を失ったまま、奴隷商の手によって袋の中へと押し込められていった。




