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【第72話:極限のデバッガー —— 10分間の決死行】

「……あと、9分よ。田中、返事がないけれど……意識を失うことは許可していないわよ?」

冷徹な、しかしどこか楽しげな声が、凍りついた室内で無情に響く。セレスティアは優雅に扇を広げ、ストップウォッチでも眺めるかのように、じっと田中の首元を見つめていた。彼女の周囲には、苛立ちとも好奇心とも取れる微細な氷の粒が舞い、床を白く染めている。

(……返事……できるか……ボケ……ッ!!)

田中の視界は、激痛のあまり真っ白に染まりかけていた。

首の周りでは、帝国の「拘束呪印」と、セレスティアが強引に叩き込んだ「氷結魔力」が、剥き出しの高圧電線のようにバチバチと火花を散らしている。それらが本来なら反発し合うはずのエネルギーでありながら、彼女の強大すぎる魔力によって無理やり押し込められた結果、「魔力癒着」という最悪のバグを引き起こし、田中の頸椎や神経系に直接、毒々しい根を張ってしまっていた。

「ひ、ひぃぃ……! な、なんてことだ……! 術式のコアが完全に凍結して、解除コードを一切受け付けない! 物理的にこじ開けようにも、この冷気に触れただけで私の指が粉々に砕け散ってしまいますぞ!」

隣で作業する奴隷商の老人は、ガタガタと歯の根が合わないほど震え、脂汗を滝のように流していた。

彼は王国の裏社会で数多の奴隷を扱ってきた「プロ」を自称していたが、こんな「上司が勝手に弄くり回して壊した最悪の故障品」など見たことがない。解除キーをかざしても、首輪は「未定義のエラー」を吐き出すかのように不気味な赤紫色の光を放つだけだ。

「……お、……おっちゃん……。……泣き言は……ええから……。……俺が……内側から……『冷却』する……言うたやろ……」

田中は、喉の奥から血の混じった声を絞り出した。

51歳の社畜魂。かつて、無理難題を押し付ける取引先と、仕様変更を繰り返すクライアント、そして現場を無視して勝手に契約を結んでくる無能な上司の間で板挟みになりながら、数々のデスマーチを生き抜いてきた男の「現場対応力」が、今、異世界で火を噴く。

「……ポチ……、……見てろよ……。……これ……俺の……得意分野や……。仕様書にないトラブルこそ……社畜の見せ所……やからな……」

田中は残された全神経を、首一点に集中させた。

自身のユニークスキル『指先から水』。本来は飲料水を出すだけの地味な能力だが、崖下の5年間で培った「高圧洗浄」と「精密な水圧操作」の技術を、今は指先ではなく、自分自身の「体内」の魔力回路に向けて解き放つ。

(……まずは……セレスさんの……冷気を……『温水』で包んで……中和する……。……次に……帝国の呪印が……これ以上の干渉を嫌って……熱暴走……しないように……一定の温度で……冷やし続ける……!)

「が、……はっ……!!」

内側から冷水と熱湯が同時に駆け巡り、全身の血管が沸騰するような地獄の感覚。

田中の鼻と耳から、細い血がツーッと流れ落ち、枕を汚していく。

だが、その文字通り命を削る「デバッグ作業」の甲斐あって、ドロドロに溶け合っていた首輪の術式に、わずかな「隙間」が生まれた。

「……今やッ!! おっちゃん!! その……隙間に……解除キーの信号を……叩き込め!! 回路が……一瞬だけ……開いとる!!」

「……あ、……あああッ!! 見えた! 術式のバイパスが見えたぞ!!」

奴隷商は狂ったように魔法具のノミとハンマーを振るい、解除キーの魔力をその隙間に流し込んだ。

残り時間は、あと5分。

「……あら。意外としぶといわね、田中。壊れた家電だと思っていたけれど、まだ少しは『機能』が残っているのかしら」

セレスティアは、苦悶に顔を歪め、全身から湯気を立てている田中を、まるで「動かなくなった時計の裏蓋を覗き込む子供」のような、無邪気で残酷な好奇心で見つめている。彼女にとって、この10分間は退屈を紛らわすための余興に過ぎない。もし失敗して田中の首が飛んだとしても、「ああ、やっぱり壊れていたのね」と一言こぼして終わりだろう。

だが、田中にとっては、一分一秒が寿命を削岩機で削り取られるような苦行だった。

「……ぐ、……あぁぁぁぁッ!! ……お、……重い……。……セレスさんの……魔力……重すぎる……ッ!!」

田中の意識が遠のきかける。

水の魔力が枯渇しかけ、首輪の熱が再び暴走を始める。視界の端で、セレスティアが不満げに眉をひそめるのが見えた。

(……あかん……。……これ……間に合わへん……。……俺……ここで……首飛んで……終わりか……?)

その時、脳裏に浮かんだのは、崖下で自分を待っているはずの、あの巨大なフェンリルの姿だった。

『有給』も『退職金』も、そしてあの静かな崖下での自由も、まだ一銭ももらっていない。

こんな理不尽な「職場事故」で、しかも元上司の気まぐれで死んでたまるか。

「……お……っちゃん……!! ……あと……一押しや……!! ……俺が……一瞬だけ……全魔力で……首輪を……内側から……水圧で……押し広げる……!! ……その瞬間に……一気に……引き抜け……!!」

「無茶だ! そんなことをすれば、あんたの首の皮どころか、肉ごと剥がれるぞ!」

「……構わん……!! ……ハゲるより……マシや……!! ……行けぇぇぇぇぇッ!!」

田中の咆哮と共に、首輪の隙間から大量の水蒸気が爆発的に噴き出した。

奴隷商が、物理的な解錠具を首輪の継ぎ目に叩き込み、渾身の力で引き剥がそうとする。

ミシミシ、という生々しい音と共に、金属が肉に食い込み、血が噴き出す。

残り時間は、あと1分を切った。

セレスティアがゆっくりと立ち上がり、冷たい指先を再び田中の額へと伸ばそうとしていた。

「……時間切れかしら、田中?」

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