【第3話:温度の魔術師 —— 42度の誘惑】
「ただの冷たい水だけでは、客単価に限界があるな」。
田中は、スラムの露店で座り込みながら、次なる『新事業』の展開を考えていた。商売の基本は付加価値だ。冷たい水だけでなく、何かもっと、こう、人間の根源的な欲求を刺激し、財布の紐を緩ませるものは……と考えた時、ふと、農家の実家で、凍えるような冬の日に親父と入った五右衛門風呂の記憶が蘇った。
田中は指先に神経を集中させ、体内に流れる奇妙なエネルギー——魔力の流れを僅かに変えてみた。冷たい水という概念に、「熱」という情報を無理やり上書きする。
指先がじわりと熱を持ち、そこから溢れ出したのは、微かな湯気を立てる熱々のお湯だった。
「……お、出た出た。温度は……これ、42度やな。日本人なら誰でも納得の、肩まで浸かりたくなる絶妙な湯加減や。……あかん、これだけで飯三杯いけるわ」
田中は、スラムのゴミ捨て場から拾ってきた大きな木桶を洗浄し、それを指先からのお湯で満たした。スラムの一角に突如現れた「移動式足湯」。
凍えるような異世界の夜、泥にまみれた足を温めるために、住人たちはこぞってなけなしの銅貨を差し出した。
「あったけぇ……」「天国か、ここは……」
涙を流して喜ぶ老人たちを見て、田中は51歳の「お節介な親父」としての顔と、商売人としての冷徹な計算を同時に走らせていた。
「お湯は一杯銅貨二枚。回転率重視やから、長湯は勘弁してや。……あと、タオルは持参な」
だが、そのお湯から立ち上る湯気は、ただの蒸気ではなかった。
田中が「美味いお湯になれ」と無意識に込めた高濃度の魔力が、霧となって夜空へと舞い上がる。それは、スラムの治安維持を名目に定期視察を行っていた王宮魔導師団の先兵にとって、漆黒の闇の中で焚かれた巨大な松明のような眩しさだった。
「報告します。スラム北地区にて、異常な魔力反応を確認。……信じられません、無詠唱で属性変化を行い、なおかつ温度を摂氏単位で完全固定している個体がいます。これは……国家級の変異種です」
王宮の深奥で、冷徹な美貌を持つ師団長セレスが、その報告書を読み上げ、青い瞳を細めた。
51歳の田中が、風俗の失敗を忘れて「お湯出し屋」として平和に隠居する夢は、この瞬間、音を立てて崩れ去ったのである。




