【第2話:スラムの給水塔 —— 指先の商機】
異世界に放り出されて三日が経過した。田中は、ここが中世ヨーロッパの暗部を煮詰めたような「王国」のスラム街であることを身をもって理解した。そして、この不衛生極まりない場所における最大の通貨が「清潔な水」であることも。
スラムの住人たちは、汚染された井戸水や、家畜の排泄物が混じった泥水を啜り、常に疫病の影に怯えている。田中は51年の商社マンとしての営業経験から、ここでの独占的なニーズを即座に確信に変えた。
彼は路地の角、比較的マシな日陰に陣取り、指先から溢れる「不純物ゼロ」の清らかな水を、住人たちが差し出す空き瓶やボロ布に注ぎ始めた。
「はい、おっちゃん、これは一杯銅貨一枚や。……あ、おまけはせえへんで。ビジネスは等価交換が基本やからな。サービス残業は現世でこりごりや」
指先から出る水は、ただの水ではなかった。魔力を通すことで、驚くほどの透明度と、喉を焼くような清涼感を持つ。田中は、押し寄せる行列を作る住人たちを、かつての満員電車の整理能力で捌き、代金回収のシステムを即座に構築した。
「田中さんの水は腹を下さない」「あの若造は水の精霊の落とし子か?」と、住人たちの間で噂が広まるのは早かった。田中は「ただの水道代わりの水や」と無愛想に笑って受け流すが、内心では51歳の慎重さが警鐘を鳴らしていた。あまりに目立ちすぎれば、この利権を狙うスラムの元締めや、もっと質の悪い権力者が現れる。
だが、若返った22歳の肉体は、どれだけ水を出し続けても疲れを知らない。田中は、失ったかつての活力を物理的に感じながらも、心の中では「今度は嫁に刺されんように、適当に手を抜いて、波風立てずに細々と生きたいわ。……早期退職後の隠居生活みたいなもんや」と、平穏を願っていた。しかし、彼の指先から溢れる水の純度は、あまりにも「商売」にするには高すぎたのだ。




