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【第32話:醸造の「リードタイム」 —— 51歳、一ヶ月の禁欲(デッドライン)】

「……ポチ。……俺、反省したわ。……商社マン時代の俺は、『明日までにやれ』って現場を詰めとったけど、……自然相手にそれは通用せん。……微生物むこうさんには、微生物の『就業規則』があるんやわ」


腹痛からようやく復活した田中は、まだ少し顔色の悪い22歳の若々しい顔で、岩塩の床に座り込んでいた。

彼は失敗した「酸っぱい泥水」を、血の涙を流しながら谷底の隅へと廃棄した。そして再び、岩塩を削り出した巨大な石樽の前に立つ。今度は、谷底で厳選した「一番熟した渋い実」を使い、指先の水を「32.5度」の一定温度に保つよう魔力を微細にコントロールしながら、樽の内部を魔力120%の温水で満たした。


「……よし。……一ヶ月や。……一ヶ月間、俺はこの樽に指一本触れん。……これが、真の『不純な隠居』への、一番高いハードルや……」


それからの日々、田中は地獄のような禁断症状と戦うことになった。

朝起きて、岩塩の床から体を起こす。すぐ横には、甘酸っぱい、どこか「理性を狂わせる」芳醇な香りを放ち始めた石樽がある。プクプク……と、中で菌たちが働いている音が、静かな岩穴に響くのだ。


「……あかん、ポチ。……匂いがしてきた。……これ、絶対もう『ええ感じ』やろ? ……ちょっとくらい味見してもバチ当たらんのとちゃうか?」


田中が震える指先を樽の蓋に伸ばすと、ポチが「ウゥー」と低く唸り、主人の情けない甘えを制止した。

「……分かっとる! ……分かっとるわい! ……ここで封を開けたら、またあの『腹痛地獄』や。……納期前納まえのうは、品質不良の元……。……あかん、俺はプロや。……51年かけて培った『我慢』を見せたるわ!!」


田中は気を紛らわせるため、さらに過酷な「自分磨き」に没頭した。

岩塩を大量に溶かした特濃の塩風呂に浸かり、指先の水圧で全身の筋肉をマッサージする。22歳の肉体は、塩分と魔力を吸収し、もはや彫刻のような美しさを放ち始めていたが、中身は「酒が飲みたくて震えるおっさん」のままである。


「……ふぅ。……風呂上がりの一杯が、……ただの水。……冷たくて美味いけど、……これじゃないんや。……俺が求めてるのは、この喉をカァーッと焼く、あの不純な刺激なんや……」


熟成20日目。谷底には、もはや隠しきれないほどの「芳醇な香気」が立ち込めていた。

岩穴の隙間から漏れ出すその匂いは、ただのアルコール臭ではない。魔力120%の水と、天然の岩塩のミネラル、さらに未知の酵母が混ざり合い、生物の生存本能をダイレクトに揺さぶる「魔性の香気」へと進化していた。


「……あと、十日。……あと十日耐えたら、俺は『王』になれる。……この谷底の、……誰にも邪魔されん『酔っ払いの王』に……」


田中は、涎を拭いながら、カチカチの干し肉を岩塩プレートで炙り、来るべき「納期デッドライン」の瞬間を夢見て、震える手でカレンダー代わりの岩の刻み目を数え続けた。

誰も来ない、誰も知らない。ただ一匹の魔狼と、一人の「不純なおじさん」だけが、神をも酔わせる美酒の完成をじっと待つ、静寂の時間が過ぎていった。

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