【第22話:命名・ポチ —— 敗残兵同士の「再雇用契約」】
銀狼——のちに田中が「ポチ」と名付けることになるその獣の傷は、単なる魔物同士の小競り合いでついたものではなかった。田中の献身的な看護と、指先から出る「魔力がえげつないほど乗ったただの水」によって意識を取り戻した狼の黄金の瞳には、鋭い野生の光と共に、拭いきれない深い「絶望」と「屈辱」の色が澱のように沈んでいた。
「……なんや、お前さん。その傷、ただの不注意やなさそうやな。背中の三条の引き裂き傷……これ、お前さんと同じ種類の、もっとデカくて性格の悪そうなやつにやられたんやろ。格付けチェックに失敗したんか?」
田中は、ウォータージェットで表面を鏡面のように滑らかに削り出した「特製・岩の診察台」の上にポチを横たえ、40度の適温水で毛並みを整えながら、独り言をこぼした。狼の背中を走る深い爪跡。それは、群れのリーダーの座を懸けた決闘に敗れ、地位も名誉も、そして守るべき同族すらも奪われて追放された証——弱肉強食の世界における、血塗られた「解雇通知」だった。
「……わかるで。俺もな、前の世界じゃ三十年、必死に組織に尽くしてきたんや。でもな、ちょっとしたボタンの掛け違いや、若手の台頭、上司の気まぐれ一つで、ある日突然『お前、明日から席ないから』って放り出される。……お前さんも、その立派な体で、誰よりも群れを思って先頭を走ってたんやろ? なのに、一度負けたらゴミみたいに捨てられる。……世知辛いなぁ、どこの世界も。コンプライアンスの『コ』の字もありゃせえへん」
狼は田中の言葉を理解したのか、あるいはその哀愁漂う声のトーンに共鳴したのか、低く、魂を削り出すような悲しげな鳴き声を漏らした。かつては『魔の森』の全域を恐怖で支配し、数千の同族を率いていた誇り高き伝説の神獣、フェンリル。それが今や、名もなき谷底で、全裸の奇妙な人間に背中を洗われている。だが、田中の指先から伝わる水の温もりが、絶望で冷え切った狼の芯に、かつての群れの誰よりも深い「安らぎ」を注ぎ込んでいた。本人は単なる「洗浄用のお湯」のつもりだが、その水には転生時に与えられた膨大な魔力が無自覚に溶け込み、狼の細胞一つ一つを強制的に活性化させていた。
「……ええか、ポチ。組織を追われたのは、お前が弱いからやない。そこが、お前の器に合ってへんかっただけや。あんなブラックな群れ、こっちから退職届叩きつけて正解やったんや。……今日からお前は、うちの『田中商事・谷底支店』の専務、兼、最高警備責任者や。……給料は、この無限の温水シャワーと、俺がウォータージェットで叩き起こす最高の飯、それから俺の愚痴を聞く権利や。……どうや、業界最高水準のホワイト条件やろ?」
田中がニカッと笑い、指先から出した「めちゃくちゃ喉越しが良い水(無自覚な高濃度魔力水)」を差し出すと、狼はその大きな舌で田中の手を力強く舐めた。それは、新たな「主」への忠誠というよりは、同じ痛みを共有する「戦友」への、不器用で熱い再就職のサインだった




