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【第21話:魔の森の来客 —— 孤高の狼と、おっさんの風呂】

谷底での生活が三日目を迎える頃、田中のシェルター周辺は、驚くほど「衛生的」な空間へと変貌を遂げていた。指先から出る無限の水と、高圧洗浄機の代わりになるウォータージェット。これがあれば、食器の洗浄から洗濯、果ては即席の「岩風呂」の建造まで、51歳の社畜には容易いことだった。


「……ふぅ。……やっぱり、日本人の心は風呂やな。……異世界に来て、崖から落ちて、一番欲しかったのはこれやわ。前の職場じゃ、深夜帰宅でシャワーだけやったしなぁ」


田中は、河原の大きな岩をウォータージェットで滑らかに削り、窪みを作って、そこへ42度のお湯をなみなみと注いだ。湯煙が立ち上る谷底の露天風呂。誰の目も気にせず、全裸で浸かるその瞬間こそ、彼が人生で初めて手に入れた真の贅沢だった。だが、その至福の時間を破るように、背後の茂みから「グルル……」という低い地響きのような唸り声が聞こえてきた。


「……ひっ!? ……な、なんや、競合他社の刺客か!? それとも、取り立て屋か!?」


慌てて湯から飛び出し、腰に布を巻き付けた田中の目に飛び込んできたのは、銀色の美しい毛並みを持った、しかし全身が傷だらけで血を流している巨大な狼だった。その瞳は金色に輝き、圧倒的な威厳を放っているが、足取りは覚束なく、今にも倒れそうなほど消耗している。


「……なんや、お前さんも、俺と同じか。……どっかの理不尽な組織に追い詰められて、この底まで落ちてきたんやな。……痛そうやなぁ、それ」


狼は田中に牙を剥こうとしたが、その場に力なく崩れ落ちた。深手を負っている。実はこの狼、魔の森の頂点に君臨する神獣『フェンリル』なのだが、田中には「ちょっと大きめの野良犬」にしか見えていない。田中は、かつて会社でボロボロになって倒れていた部下を介抱した時のことを思い出し、無意識に足が動いていた。


「……おい、動くなよ。……俺は怪しいもんやない。……ただの、しがない給湯器や」


田中は指先から、魔力を極限まで高めた「治癒成分を模倣した清浄水」を生成した。セレスの私邸で彼女の肌を整えるために研究した、あの保湿と再生の魔法理論の応用だ。狼の傷口を温水で優しく洗い流し、止血し、魔力の水を浸透させていく。狼は最初こそ警戒していたが、田中の水がもたらす心地よさに、次第にその荒い呼吸を整えていった。


「……ほら、これ飲め。……特製の『田中天然水・魔力配合版』や。……お前さんも、俺の顧客第一号やな。……しっかりせえよ、……仲間(社員)は、多い方がええからな」


水を飲ませ、傷を癒す。狼はその金色の瞳で、じっと田中を見つめていた。その視線には、もはや敵意はなく、どこか戸惑いと、そして奇妙な親愛の情が混ざっているように見えた。51歳のおっさんと、傷ついた孤高の神獣。文明から切り離された『魔の森』の谷底で、奇跡的な共生関係が、湯煙と共に静かに幕を開けた。

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