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【第19話:漂着の谷底 —— 孤独なDIY創業(スタートアップ)】

どのくらいの時間が経過しただろうか。頬を執拗に叩く、氷のように冷たい雨の感触で、田中は薄く目を開けた。全身を襲うのは、かつて経験したことのない重苦しい鈍痛と、芯まで凍りつくような寒気。22歳の強靭な肉体でなければ、とうの昔に魂が肉体を捨てて逃げ出しているレベルの凄まじいダメージだ。


「……げほっ、……がはっ! ……生きて、……るな。……俺。……クソ、……最悪の朝や。これやから、……営業の外回りは……嫌いやねん……」


目を開ければ、そこは切り立った巨岩に囲まれた、正午ですら薄暗い、深い谷底の河原だった。上を見上げれば、自分が突き落とされた崖の頂が、雲の向こう側にあるかのように遠く、小さく見える。実はここ、王国ですら禁忌とされる『魔の森』の最深部なのだが、田中はそんな「業界の常識」を知る由もない。右肩にはクロスボウの矢が折れた状態で深く突き刺さったまま。右腕は不自然な方向に曲がり、指先の感覚すら消失していた。


田中は泥水を吐き出し、震える左手で右肩の矢の根元を掴んだ。

「……んぐっ、……ふ、……ふーー……。営業マンは、……身だしなみが、……命やからな……。こんなん、……刺さったままじゃ、……まともな商談にも行けへんわ!」

覚悟を決め、一気に矢を引き抜く。肉を裂く鈍い音と共に、22歳の鮮血が河原の石を赤く染めた。田中は即座に指先から「40度の清浄な熱湯」を出し、傷口を洗浄。さらに、傷口を塞ぐように魔力を込めた水を押し当て、止血を試みた。これらはすべて、社畜時代に培った「緊急時の応急処置」の延長線上にある。


「……拠点、なし。福利厚生、なし。……手持ちの資産は、指先の水と、このボロボロの体、それから……。……この、使い古しの『社畜の意地』だけか。……よっしゃ、完全な、……一人創業スタートアップやないか。資本金ゼロからの挑戦や」


田中は、脱臼した右肩を大きな岩の鋭い角に押し当てた。51歳の精神が「やめとけ、痛いぞ。死ぬぞ」と本気で警鐘を鳴らすが、今のままでは明日を生きられない。彼は腹の底から気合を絞り出し、体重を乗せて「ガツン!」と肩を嵌め戻した。凄まじい衝撃に、22歳の顔が白く染まり、そのまま悲鳴すら上げられずに数分間、泡を吹いて悶絶した。


だが、肩が戻ればこっちのものだ。田中はふらつく足で立ち上がり、河原に転がる流木と、崖から剥がれ落ちてきた強靭な蔦を集め始めた。農家の倅として、休日に親父の物置作りを手伝わされ、「なんでこんなこと……」と文句を言いながら培った「建築の基礎知識」が、今、彼の命を繋ぐ唯一無二の技術へと昇華する。


指先から高圧のウォータージェットをレーザーのように細く放ち、木材の表面を精密に削り、凸凹のホゾ溝を作る。釘も金槌もないが、田中には「魔法の超高性能切断機」がある。

「……セレスさんも、アリスちゃんも、ここまでは追ってこれへん。……帝国も、俺が死んだと思ってるやろ。……しばらくは、一人で気楽に、……自分だけの『会社』を作らせてもらうわ。定年後の夢、こんな形で叶うとはなぁ……」


真っ暗な谷底。たった一人のサバイバル。だが、田中の心は、王都の豪華な客間にいた時よりも、そして接待で高級酒を飲んでいた時よりも、ずっと澄み渡っていた。誰にも邪魔されず、誰の顔色も伺わず、ただ自分の命を維持するために、指先から水を生み出し、土を捏ねる。

彼は、指先から出した僅かな温水で泥まみれの顔を拭い、雨風を凌ぐための粗末ながらも頑丈なシェルターを完成させると、明日への「泥臭い事業計画」を練りながら、深い、深い眠りへと落ちていった。

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