【第18話:決死の激流下り —— 生存本能と社畜の意地】
「……消えろ、泥の底へ。死ななければ、後で拾い上げてやる」
帝国兵の隊長が放った冷酷な一蹴りが、田中の胸板を容赦なく捉えた。肺の中の空気が一気に絞り出され、視界が火花を散らす。背後にあったのは、数百メートル下まで続く、白濁とした霧が不気味に渦を巻く断崖絶壁。重力という名の抗えない「リストラ宣告」が、無防備な田中の体を暗黒の虚空へと引きずり込んだ。
(……あ、……あかん。またや。また俺は、誰かに突き落とされて終わるんか。会社でも、家でも、異世界に来てからも……。結局、俺は誰かの都合で使い捨てられるだけの『備品』やったんか?)
景色が真っ逆さまに反転し、叩きつけるような夜風が全身の熱を奪っていく。右肩を貫いたクロスボウの矢が、落下の衝撃で激しく揺れ、脳を直接焼くような劇物を撒き散らす。普通なら、ここで痛みと恐怖に意識を失い、ただの物言わぬ肉塊として硬い岩盤に激突して終わるだろう。だが、田中の51年間の社畜人生は、あまりにも「理不尽な落下」に慣れすぎていた。
「……ふざけんな。俺は、……俺は、まだ退職届も出してへんぞ! 誰が勝手に……クビ決めてくれとんねん!」
落下しながら、田中は指先に残された全魔力を集中させた。ただ落ちて死ぬつもりはない。これは死ではなく、最悪の環境への「強制配属」だ。農家の倅として、少年時代に高い岩場から川へ飛び込んで遊んでいた記憶。そして、商社マンとして土壇場の交渉で相手の隙を突いてきた執念。そのすべてが、22歳の研ぎ澄まされた肉体の中で化学反応を起こす。
「……出ろ! 俺の、……俺だけの、クッションを!!」
指先から、霧状に拡散された大量の魔力水が爆発的に噴射される。それが落下速度による強烈な風圧と衝突し、目に見えない「水の壁」となって、致死的な加速を僅か、ほんの僅かだけ殺していく。さらに彼は、崖下に白く泡立つ激流——『忘却の川』に向けて、空中で必死に身を捩り、体の軸を微調整した。
バチンッ!! と、水面が鉄板のように体を打つ。衝撃で右肩の矢がさらに深く食い込み、22歳の強靭な骨格がミシミシと悲鳴を上げた。鼻から、口から、冷たい水が肺に容赦なく流れ込む。意識が遠のきそうになる激痛と、芯まで凍りつくような寒気。だが、田中は必死に濁流にしがみついた。
(……吸え! 水の中の、……空気を吸い出せ!)
指先の魔法を応用し、水分子を分解して、極小の「酸素の泡」を自分の口元に無理やり集束させる。濁流に何度も岩へと叩きつけられ、全身が青紫色の痣だらけになりながらも、田中は決して指先の魔力を解かなかった。
「……死んで、……たまるか……。俺は、……自由になるんや……。誰の、……誰の道具にも……ならへん……!」
渦巻く闇の中、田中の意識は深い沈黙へと沈んでいった。しかし、その指先だけは、生き延びるための「水」を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。




