【第17話:断崖の終着駅 —— 突き落とされた社畜の命】
森の深奥、湿った土の匂いと腐敗した落ち葉の香りが混ざり合う闇の中を、田中は22歳の爆発的な脚力を頼りに無我夢中で駆け抜けていた。心臓の鼓動が耳元で、壊れたメトロノームのように激しく打ち鳴らされている。背後からは、金属同士が擦れ合う冷徹な音と、獲物を着実に追い詰める猟犬のような鋭い足音が、確実に、そして残酷に距離を詰めてくる。帝国の索敵部隊『黒狼隊』。彼らは一度狙いを定めた獲物を、決して生かしては帰さない、冷酷無比な「死の執行人」たちだ。
(……あかん、これ。若返った体やからって、調子乗りすぎた。無双して逃げ切れるなんて、甘い考えやったわ。商売の基本は損切りと引き際……やけど、今回の現場には、逃げ道(出口)すら用意されてへんぞ!)
視界が突如として開けた。だが、そこは希望の出口ではなく、人生の幕引きを告げる絶望の終着駅だった。足元から数百メートル下まで切り立った、白濁とした霧が不気味に渦を巻く断崖絶壁。振り返れば、十数人の帝国兵が、黒い甲冑を月光に鈍く光らせながら、逃げ場を完全に塞ぐための完璧な扇状の包囲網を狭めていた。
「水の魔導師よ、もはや逃げ場はない。その特異な異能、我が帝国の軍事研究材料として大人しく差し出せば、命だけは助けてやらんでもない。……さあ、その指をこちらに向け、跪け。抵抗は無意味だ。貴様のような『便利な道具』を、ここで壊すのは惜しいからな」
隊長らしき、顔に古い火傷跡のある男が、勝利を確信した冷笑を浮かべて一歩踏み出す。田中は、震える足で崖の淵に立ち、背後に広がる底の見えない虚空と、目の前に突きつけられた冷たい刃の群れを交互に見つめた。
(……道具、か。結局、どこへ行っても俺はそれなんやな。会社では使い捨てのコマ、家では給料を運ぶだけの機械、異世界に来てからはセレスさんの給湯器……。そして今度は、帝国の実験材料か。……ふざけんな。俺の人生、いつになったら俺のものになるんや)
田中は震える指先を向け、最後の抵抗を試みようとした。だが、相手は戦いを知り尽くした精鋭だ。田中が魔力を練るよりも早く、別の帝国兵が放ったクロスボウの矢が、空気を切り裂いて田中の右肩を深く貫いた。
「ぐっ……!? あ、ああああ!!」
凄まじい衝撃と、焼けるような激痛。22歳の瑞々しい肉体が、たやすく破壊される感触。バランスを崩し、苦悶に顔を歪めた田中の胸元に、隊長の重厚な軍靴による蹴りが見舞われた。
「……無駄な足掻きを。貴様に選択権などないと言ったはずだ。……消えろ、泥の底へ。死ななければ、後で拾い上げてやる」
隊長の冷酷な一蹴りで、田中の体は崖の縁から無慈悲に押し出された。
「……あ、……あかん……!!」
指先を必死に伸ばすが、掴めるものは何もない。冷たい夜風が身体をさらい、景色が真っ逆さまに反転していく。視界の端で、崖の上に立つ帝国兵たちが、道端の石コロでも蹴り落としたかのような冷めた目で見下ろしているのが見えた。
(……嘘やろ。俺、また……。また何もできんまま、ゴミみたいに捨てられるんか。カミさんに刺された時も、会社でリストラ候補になった時も……いつも、最後はこうやって誰かに決められて……)
重力に引きずり込まれ、真っ逆さまに落ちていく瞬間、田中は生まれて初めて、剥き出しの生への執着を爆発させた。
「……お前ら……覚えとけよ……! 俺は、……俺は絶対、こんなところで終わらへんぞーー!!」
霧の中に消えていく絶叫。51歳のおっさんが、22歳の体で経験する二度目の、そしてあまりにも理不尽な死の予感。霧の向こう側、激流の音が近づいてくる中、田中の意識は真っ白な絶望に飲み込まれていった。




