【第15話:本陣急襲 —— 営業担当、最前線の裏側で孤立する】
アイアン・ゲート砦を巡る攻防は、田中の予想を遥かに超える苛烈さを極めていた。セレスとアリス率いる魔導師団の主力は、砦の正面から迫る帝国の重装歩兵大隊と、空を舞う魔導騎士団を迎え撃つべく、本陣を離れて地獄の最前線へと突入していった。田中は、後方の本陣に一人取り残され、数千人分の水瓶を指先から絶え間なく満たし続ける「人間水道局」としての過酷な重労働を、黙々とこなしていた。
「……あかん、この嫌な静けさ。商社時代、大型契約の成約直前に、競合他社が裏で政治家を動かしてると察知した時の、あの胃に穴が開くような空気にそっくりやわ」
地平線の彼方で絶え間なく響く魔導砲の地を這うような轟音と、空を真っ赤に、どす黒く焦がす爆炎。戦場の喧騒は、ここからでは遠い場所で行われている劇の音のように聞こえる。だが、周囲を警護するはずの兵士たちが、前線の補充のために次々と引き抜かれ、本陣の防備が致命的なまでに薄くなっていることに田中は気づいていた。セレスは勝利への最短距離を走るあまり、後方の脆弱性を「あり得ないリスク」として切り捨てていたのだ。
その直後、田中の悪い予感は、この異世界で最も「最悪な形」となって現実のものとなった。
背後の切り立った崖の上、死角となっていた場所から、音もなく、漆黒の甲室を纏い、魔力隠蔽を施した帝国軍の遊撃別働隊——通称『黒狼隊』が、獲物を狙う獣のような鋭さで姿を現したのだ。
「なっ……!? 伏兵や! 敵襲、敵襲やーー!! 誰か、セレスさんに伝令を!! 狼煙を上げろ!!」
田中の叫び声が空を切り裂くと同時に、本陣に無数の火球が降り注いだ。乾燥した食糧庫が一瞬で爆発炎上し、熱風が田中の顔を焼く。パニックを起こした軍馬たちが嘶きながら暴れ回り、繋がれていた杭を引き抜いて四方八方へと駆け出す。守備兵たちは、不意を突かれて隊列を組む暇もなく、帝国の黒い投槍に次々と貫かれていった。セレスたちは砦の乱戦の渦中にあり、この後方での惨劇に気づく気配は一切ない。通信用の魔導具も、帝国の妨害電波(魔力攪乱)によって沈黙していた。
「おい、水出しの若造! 突っ立ってると死ぬぞ、こっちに来い、早く逃げろ!」
顔馴染みの、いつも田中に「お湯、助かるよ」と声をかけてくれていた年配の兵士が、田中を突き飛ばして逃げ道を確保しようとした。だが、その瞬間、彼の喉元を帝国の黒い槍が、まるで紙でも貫くかのように冷酷に貫通した。
「……おっちゃん! 嘘やろ……おい、しっかりしろ!!」
鮮血が、若返った田中の白い頬と軍服を赤く汚す。かつて風俗の領収書を握りしめ、キッチンナイフを振りかざした嫁に刺されたあの夜の絶望感なんて、これに比べれば「ちょっとした家庭内の不和」でしかなかった。本物の「死」が、圧倒的な質量と冷たさを持って、すぐ目の前で大きな口を開けて待っている。
田中は腰を抜かし、泥まみれになりながらも、22歳の爆発的な脚力を必死に動かして、森の境界線へと這うようにして走り出した。心臓が早鐘を打ち、肺が焼けるように熱い。だが、背後からは重厚な金属同士が擦れる冷酷な足音が、逃げ場を完全に塞ぐように、確実に、一歩ずつ近づいてくる。
「王国の魔導師か? 水の魔法使いなど、軍の補給を断つためにここで根絶やしにしておこう。……死を、帝国の覇道の礎となる光栄と思え」
帝国兵が、返り血で黒ずんだ剣を高く振り上げた。田中は、冷たい泥の中に膝をつき、震える自分の指先を見つめながら、走馬灯のように駆け巡る51年間の後悔と、あまりにも不条理な二度目の人生の終わりを噛み締めていた。




