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第134話:不条理なデバッグ済み(処理済み)

市場の喧騒は、つい数分前まで「世界の彩り」のように思えていた。


麺屋『昇龍』の暖簾をくぐり、初夏の陽光の下に踏み出した時、五十一歳の精神を宿したサトウの胸にあったのは、ささやかな満足感だった。煮卵の追加という微々たる投資が、これほどまでに心の平穏をもたらすとは。喉を滑る麺の弾力、胃に落ちる熱。それらは、この「異世界」という不確かな現実の中で、唯一信頼できる手応えだった。


「……ふぅ。……エレン。案内感謝する。腹は満たされた」


サトウは、二十二歳の若々しさを持ちながら、どこか無機質な背中をエレンに向けた。

そのまま「では、私は(ギルドへ)行く」と、本来の予定通りに別れを告げようとした、その時だった。


視線の先、人混みを横切り、大通りへと出ていく数人の男たち。

汚れた革鎧、品のない笑い声、さらに——昨日、サトウが全リソースを割いて無力化し、衛兵へ「納品」したはずの、あの盗賊どもの顔だ。


(……あ?)


サトウの口から漏れたのは、若者には似つかわしくない、低く、濁った声だった。

脳の奥底で、かつての社畜時代に何度も味わった「あの不快音」が鳴り響く。

徹夜で修正デバッグし、完璧に動作することを確認してリリースしたはずのシステムが、翌朝の運用開始直後に何食わぬ顔をして致命的なエラーを吐き出しているのを目撃した時の、あの吐き気のするほどの徒労感と怒りだ。


(……は? **デバッグ済み(処理済み)**のデータが、なぜまだメインメモリで動いてるんだ?)


サトウの思考から、隣に立つエレンの存在は一度完全にパージされた。

目の前にあるのは「不条理」という名のバグだ。自分が支払ったコスト、流した汗、削った精神——それらすべてが、ルミナスの腐った運用システムによって「なかったこと」にされている。


「……エレン。予定が変わった。今から、修正作業デバッグが発生した。……ついて来るな。足手まといだ」


サトウの声には、先程までの満足感など欠片も残っていなかった。

「……おい。……待て。ふざけるなよ……」


サトウは無意識に、盗賊たちの後を追って歩き出した。

胃の底に澱む不快感すら、今のサトウにとっては無視すべき誤差に過ぎない。

横にいるエレンは、サトウから放たれた氷のような殺気に当てられ、顔を青くしてついてくる。


——一歩、遅れる。


(……止まるべきだと理解していた。だが、それでも足が止まらなかった)


恐怖に喉が引き絞られながらも、エレンの聖女候補としての本能が「見て見ぬふり」を許さなかった。サトウが見据えている先に何があるのか、自分の目で確かめなければならないという、呪いのような義務感が彼女の体を突き動かしていた。


「え、ちょっと、サトウさん!? どこへ行くんですか? ……さっき、胃が重いって言ってたのに……」


「……黙ってろ。……今の私に話しかけるな。……計算が合わなすぎて、吐き気がする」


サトウは人混みの向こうへと消えていく盗賊を凝視し続ける。

彼らは隠れる様子すらない。まるで「自分たちはこの街の支配者に守られている」と誇示するかのように、悠々と、ルミナスの中心部——「公館」の勝手口へと入っていった。


その光景を見た瞬間、サトウの脳内でパズルが完成した。


(……なるほど。……盗賊は外敵ではなく、この街の防衛システムに飼われている側か。……どおりで市場の物流が腐るわけだ。自作自演で被害を出し、警備予算を中抜きし、裏で盗品を還流させる。……領主側近、あるいは領主自らが、この街を食い物にしているのか)


公館の入り口。立ち塞がる衛兵が、石ランクの冒険者タグを下げたサトウを冷たくあしらう。

「……中に、昨日私が捕らえた盗賊が入っていった。……彼らがなぜ自由の身なのか、説明を求めたい」


「あぁ? ……知らねえな。……目がおかしいんじゃねえか? 昨日のことなんて、記録にねえよ。消えろ」


指先が、微かに震える。

サトウの内側で、煮えくり返るような感情が噴出していた。だが、その怒りに反比例するように、魔力の出力計算は氷のように研ぎ澄まされていく。感情はある。だが、処理は別だ。


サトウの意識が水刃へと収束しようとした、その時。


「……通しなさい」


サトウの背後から、エレンが踏み出した。

その顔は青ざめ、膝は震えている。だが、その恐怖よりも先に、聖女候補としての責務が彼女の体を突き動かした。


「せ、聖女候補様……!? なぜ、このような場所に……」


「……その方の言っていることを、私も確認する必要があります。……入館を要求します」


サトウは、その横顔を冷めた瞳で見つめていた。視界の端で、彼女という「最強の免罪符」の利用価値を即座に再評価する。


サトウはエレンを伴い、公館の重厚な扉を開けさせた。

内部は「法」と「秩序」が守られているかのような、虚飾に満ちた静寂が支配している。

サトウは迷うことなく、さきほど盗賊たちが消えた奥の回廊へと歩を進めた。


「……エレン。昨日、私がコストをかけて君に説教したことを覚えているか? ……善意は市場を壊すが、それ以上に世界を壊すのは、システムの管理者が、システムそのものを食い物にすることだ」


サトウの視線の先。豪華な応接室の扉から、笑い声が漏れていた。

「……さて。……デバッグの時間だ」

サトウは扉を、音も立てずに開け放った。


そこにいたのは、最高級のワインを傾ける領主の側近——そして、その足元で卑屈に笑い、ワインの余りにあずかろうとしている、昨日の「バグ(盗賊)」たちだった。


サトウは部屋を一瞥した。

側近はワイングラスを傾けたまま固まっている。サトウが一歩、部屋の中へと踏み入れる。


その瞬間だった。


椅子の脚が、妙な音を立てた。

いや、違う。


——見えなかった。

何をされたのか、分からない。

ただ、座って笑っていたはずの男の体が、机の下で、音もなく不自然に「位置を変えていた」ことだけが理解できる。切断そのものに音はない。結果だけが、遅れて現実を破壊する。


(……今、何が起きた?)


立ち上がろうとした別の男の膝が、崩れた。

その場にいた全員が、同じ疑問を抱いたまま、誰一人として声を出せなかった。

一拍遅れて、椅子ごと男が崩れ落ちた。


エレンの喉が、微かに鳴る。肺が、酸素を吸い込むことを忘れていた。


(……違う。……この人は、サトウさんじゃない)


隣に立っている「それ」は、昨夜、自らの利益のために商流を守り抜いた青年ではなかった。

理屈では、繋がっているはずなのだ。利益を損なうバグを排除するという、彼の合理性。それは、昨夜の「守る」という行動と何ら矛盾していない。

だというのに。目の前の処理には、人間のあらゆる「揺らぎ」が欠落している。

エレンは、一歩だけ後ろに下がった。かつて経験したどんな魔物への畏怖よりも重い、「理解不能」という名の絶望が、彼女の五感を麻痺させた。


「……二度目はない」


サトウの声は、あまりにも静かだった。感情は荒れているはずなのに、その処理精度は一切揺らがない。まず一つ、修復不可能なレベルで壊す。残った者たちが、それで十分に口を割るための「前処理」だ。


サトウは、倒れた盗賊を一瞥すらしない。


「……それで?」


視線は、まだグラスを握ったままの側近へと固定される。

処刑場と化した応接室で、サトウは一歩、また一歩と、自分たちの利益のためにシステムを汚染した「血栓」へと近づいていった。

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