第129話:合理的帰還
リベルタの夜が明ける。
昨夜の惨劇が嘘のように、酒場の床は白々と洗い清められていた。だが、その静けさは「回復」ではない。ただ、すべてが処理済みであることを示しているだけだった。
■ 開かれた扉という檻
二階の客室。
ハンスは目を覚ましていた。身体はサトウの魔法によって完璧に「修復」されている。
「……ハンス」
傍らに座っていたガストンが、その小さな手を握る。温もり。
だが、ハンスはその手を握り返さない。ハンスの瞳は、目の前の男ではなく、開かれたままの客室の扉を見つめていた。
「……なおった?」
「ああ……治った。サトウが……お前を、治してくれたんだ」
「……あ。……あの。……オーナー様は?」
自分を救った「人間」ではなく、自分を修理した「システム」を求める声。
ガストンの中で、何かが完全に砕けた。
びくり、とハンスの身体が跳ねた。
一階から、酒場の重い扉が開く音が、静寂を切り裂いて響いてきたからだ。
ハンスはガストンの手を振り払い、ベッドから飛び出した。
ハンスは答えず、ただ階段を駆け下りた。一階の酒場には、朝霧が流れ込んでいる。開け放たれた扉。その向こうには、どこまでも続く街道があった。
サトウはカウンターの奥で、帳簿を整理している。
ハンスは、迷いなくその開かれた扉へと走り出した。
猛然と。霧の向こうへ。
一歩。三歩。十歩。
首輪はない。足枷もない。
逃げるハンスの背中を見つめながら、ソフィアが低く呟いた。
「首輪がないんじゃない。“いらない”のね」
「物理拘束は非効率だ」
サトウは視線すら上げずに答える。
他の奴隷たちは、誰も止めない。ただ、無感情な瞳で、その小さな背中を見送っている。
ガストンが階段を駆け下り、絞り出すように声を上げた。
「行け……! 戻ってくんな……! 行けよ……ッ!!」
だが。
街道の半ばで、走っていたハンスの足が、ピタリと止まった。
追っ手はいない。サトウは、ペンを動かし続けている。
それでも、ハンスは動けなくなった。
ハンスは数秒間、震えながら街道の先を見つめ――やがて、絶望に肩を落とすと、自ら酒場の方へと歩いて戻ってきた。
「……なんでだよ」
ガストンの声は、もう震えることすらできなかった。
戻ってきたハンスは、ガストンを見ることなく、ただ乾いた声で呟いた。
「……無理だ」
「ハンス……?」
「……外。……死ぬ」
恐怖ではなく、確定した未来を口にするような口調だった。
そのとき、サトウは帳簿から目を離さないまま、感情のない声で告げた。
「五分のロス。今日の休憩時間で補填しろ」
サトウは顔を上げない。
「次はない。誤差を出すな」
■ エラーログ
カウンター席。
サトウは一人、帳簿を整理していた。損失。回収。再発防止。すべては想定範囲内。完璧な処理。
ペンが、わずかに止まる。
(……過剰か?)
その一行が、消えない。
「オーナー様?」
ソフィアが背後に立つ。
「昨夜のこと……面白かったわ。あなた、“止まった”でしょ?」
沈黙。
サトウは即答せず、ペンを置いた。
「……業務に戻れ」
「ええ、もちろん」
ソフィアは微笑み、踵を返す。
酒場の外には、どこまでも続く道がある。
だが、誰も動かない。
扉は開いたままだった。




