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第118話:穀倉地帯の泥道行軍と、自由都市の門

空はどんよりとした鉛色に淀み、断続的に降り続く霧雨が、街道を果てしない泥の沼へと変えていた。

 車輪が泥を噛み、鈍く、粘り気のある音を立てるたびに、周囲には家畜の死臭と、安価な油の焦げた匂いが混じった独特の悪臭が漂う。王都を脱出し、広大な穀倉地帯を抜けるこの街道を、サトウこと田中は「三流のポーター」として、ただ黙々と、機械的に足を動かし続けていた。


全身に塗りたくった泥は、雨に濡れては乾き、また濡れては層をなし、今や彼の肌の一部のように強張っている。かつての「商社会長」としての洗練されたスーツ姿も、王都のギルドで手に入れた「鉄」という名のささやかな社会的信用も、すべてはこの不快な泥濘の中に深く、取り返しがつかないほど埋没させていた。


だが、その濁った瞳の奥――脳内のバックオフィス(思考領域)では、51歳の冷徹な経営者が、常に「残存ポートフォリオ」の緊急査定を続けていた。


(……ふむ。王都を脱して数日。物理的な距離を稼ぐことで、ようやくあの『不良債権』……失礼、ザックさん、ニコさん、ミアさんを切り離した実感が湧いてきましたな。ええ、ザックさん、あえて『さん』付けで呼ばせていただきますよ。君という名の、歩く脆弱性、致命的なセキュリティホールを、あの日あの場で『損切り』したのは、私の今世における最大の英断であったと確信しております)


サトウは泥濘に足を奪われ、一瞬よろめきかけた。22歳の若く、しかし栄養状態の悪い今の肉体は、過酷な労働によって常に悲鳴を上げている。脳内の経営者は、その肉体という名の「安価なハードウェア」を、冷酷なまでに酷使し続けていた。


(……とはいえ。なぜでしょうな。私のバックオフィスには、未だに君たちが撒き散らした『予測不能なノイズ』がキャッシュとして残り続けている。不合理な正義感、感情的な叫び、そしてあの無邪気な信頼。……実に不愉快だ。経営において、一度清算したはずの赤字部門がこれほどまでに意識の隅にこびり付くのは、私の論理回路に何らかのバグが生じている証拠でしょう。……いや、今は自分のリソースを彼らに割くなど、コストの無駄。集中すべきは、目前の『リベルタ』での再起。無価値な感傷は、この街道の泥と共に、一歩ごとに振り落としていくとしましょう)


自嘲気味に口角を歪め、サトウは前を行く行商人の馬車を見上げた。この数日間、彼らに雇われ、人間の限界を超えるほどの荷を背負い、家畜以下の言葉で罵倒され、時には腐りかけの残飯を投げ与えられてきた。それも全ては「誰の目にも留まらない、無価値な存在」という、究極の情報秘匿ステルスを維持するための、必要経費に過ぎない。


「おい、泥坊主! 動きを止めるな! 貴様の代わりなど、その辺の死体からいくらでも拾えるんだぞ! さっさと歩け、日が暮れる前に『リベルタ』の門をくぐるんだ!」


行商人のリーダーが、馬車の上から鞭を鳴らして怒鳴りつける。サトウは「ひ、ひひっ……すんませんだ、旦那様。今、今すぐ……」と、擦り切れた卑屈な声を上げ、腰を深く折って再び泥道を歩き出した。


やがて、平原の霧の向こうに、巨大な石造りの城壁が姿を現した。自由都市『リベルタ』。王都の法が及ばず、ただ金と実力、そして取引の冷徹さだけが秩序を支配する場所。そこはサトウにとって、かつての商社時代を彷彿とさせる、不純で、しかし極めて合理的な「理想的な再起の地」であった。


だが、その門前でサトウを待っていたのは、今の彼が最も嫌う「不測の支出」だった。


門前には、王都の動乱から逃れてきた難民と、彼らを剥ぎ取ろうとする狡猾な商人たちが、重厚な鉄格子の前で衛兵と言い争い、長蛇の列を作っていた。検問所に差し掛かった行商人一行に対し、衛兵は事務的に身分証の提示を求める。リーダーは慣れた手つきでギルド証を見せ、数枚の銅貨を賄賂として握らせた。衛兵はそれを当たり前のように受け取り、一行を通そうとするが、最後尾のサトウにだけは槍の柄を突きつけた。


「待て。そこの泥まみれの。貴様、身分証はどうした。所属は?」


サトウは情けなく、生まれたての小鹿のように膝を震わせ、地面に這いつくばった。


「ひ、ひいぃっ……旦那様、あっしは……その、王都の火災で全部燃えちまいまして。ポーターの登録証も、何もかも……」


「身分証なしか。ならば入城税は特別レートだ。身分証持ちなら銅貨10枚だが、なしの浮浪者は**【銀貨1枚(1万円)】**だ。払えないなら、あっちの詰所へ行け。徴用兵か、あるいはリベルタのドブさらいを数ヶ月やってもらうことになる」


銀貨1枚。今の「三流ポーター」を演じ、キャッシュフローを極限まで絞り込んでいるサトウにとっては、物理的にも、そして現在のポートフォリオ上においても、到底用意できない巨額だ。


「おい、泥坊主。お前、銀貨なんて持ってねえだろ?」


行商人のリーダーが、冷酷な、獲物を品定めするような目でサトウを見下ろした。


「あ、あの……旦那様。今回の手伝いの報酬を、どうか前借りさせていただければ……。あっし、一生懸命働きますだ!」


「ハッ! 笑わせるな。お前みたいな無能をここまで運んでやって、食事まで恵んでやったんだ。こっちが手間賃を請求したいくらいだ。……おい、衛兵さん。こいつは俺の連れじゃねえ。ただ勝手についてきただけの他人だ。好きにしてくれ」


リーダーは唾を吐き捨て、サトウを見捨てるように門の中へと消えていった。契約終了。サトウの脳内で、無機質なデフォルト(債務不履行)の警報が冷たく響く。


(……ふむ。リスク共有を拒むビジネスパートナーの典型例ですな。……結構。これにて、私と彼らの『不純な雇用関係』は、債務不履行につき清算完了。彼らの損失が、いずれ彼ら自身の首を絞めることになっても、私は一切関知いたしませんよ)


サトウは衛兵に乱暴に腕を掴まれ、城壁脇の薄暗く、腐った藁の匂いがする詰所へと引きずり込まれた。


「おい、新入り。ここで一晩じっくり、自分の価値のなさを噛み締めるんだな。明日の朝には、安い奴隷商にでも引き渡してやるよ」


衛兵が嘲笑い、鉄格子の扉を閉めようとした、その時だった。


「待て。……その男、俺が身元を引き受ける」


詰所の奥から一人の兵士が歩み寄ってきた。少し年配で、穏やかな顔立ち。だがその装備は使い込まれており、この街の澱みを知り尽くした男の風格があった。


「なんだよ、おっさん。また『人助け』か? こいつは見ての通り、銀貨一枚も払えないゴミだぜ」


「いいから、通せ。……ほら、銀貨1枚だ。文句はないだろ」


兵士は迷いなく、自身の懐から銀貨を取り出し、同僚の手に叩きつけた。衛兵は舌打ちをしながら、サトウの腕を放し、扉を開けた。


「……旦那様、なぜ……あっしのような者に、これほどの大金を……」


サトウは泥だらけのまま、驚きと戸惑いを装い、震える声で尋ねた。兵士はサトウを外へと促しながら、静かに笑った。


「あんたの目、死んでねえからな。……だが、門を通すだけじゃ不十分だ。そのままじゃ不審者としてすぐに捕まる。……来い、冒険者ギルドまで案内してやる。そこで身分証を作れ」


兵士はサトウの肩を掴むようにして、リベルタの喧騒の中へと連れ出した。それは「案内」という名の「監視」でもあった。見ず知らずの浮浪者に大金を貸した以上、その金が正しく「身分」へと変換されるのを見届けるのは、兵士としての、あるいは一人の男としての当然の合理性だろう。


辿り着いた冒険者ギルドの受付。殺気立った空気の中、受付の男が面倒そうに言い放った。


「登録料は**【銀貨1枚(1万円)】**だ。払えるのか?」


サトウは無意識に、空の懐を弄った。当然、払えるはずもない。

 だが、背後に立つ兵士が、ため息混じりにもう一枚の銀貨をカウンターに置いた。


「……これで頼む。こいつの登録料だ」


サトウの脳内のバックオフィスが、激しく火花を散らした。

 合計、銀貨2枚。この世界の貨幣価値でいえば、日本円にして約2万円。この身なりの良くない末端の兵士にとって、それがどれほどの「非合理的な投資」であるかは、計算するまでもない。


(……銀貨2枚。無担保、無保証。……それも、ただ『目が死んでいない』という、データにすらならない主観的な評価基準のみを根拠に、これほどのレバレッジをかけてくるとは。……兵士さん。君のその脆弱性、もはや『致命的』を通り越して、狂気の沙汰ですよ。経営者なら即刻解任されるレベルの甘さだ)


サトウは一切の余計な口を利かず、ただ卑屈な笑みを浮かべて控えていた。受付の男は鼻を鳴らしながら、安っぽい木札に「サトウ」の名を刻み、投げ出した。


「はい、登録完了だ。今日からお前は**『ストーン』**の末端だ。……仕事なんて期待するなよ、今はよそ者が溢れかえってるんだ。『昔は別の街でブイブイ言わせてた』なんて寝言を抜かす奴も多いが、この街じゃ実績のねえ奴はクズ同然だからな」


サトウは何も言い返さず、泥に汚れた手で木札を拾い上げた。王都で築いたキャリア。かつての「鉄」という称号。それらがリセットされ、社会の最底辺である「石」として定義されたことを、彼はむしろ歓迎していた。


(……石、ですか。結構。……わざわざ一歩ずつ階段を登るなど、定年を待つ平社員のやることです。私は経営者として、この組織の『昇格規定』そのものを、私の利益に合うように利用ハックさせていただきますよ。実績を自ら作る必要などない。誰かの実績を買い叩き、あるいはギルドの負債を肩代わりすることで、ランクを強引に事後承認させる……。そのための『種銭』を、まずは商業ギルドから『回収』しに行きましょうか)


サトウは、背後に立つ兵士に向き直って深々と頭を下げた。


「……旦那様。この恩、あっしは一生……一生忘れませんだ」


「いいさ。死ぬなよ。……俺は勤務に戻る。身分証を大事にしろ」


兵士はそれだけ言うと、満足げに、そしてわずかに財布の軽さを気にするような仕草を見せて去っていった。

 サトウは一人、ギルドの喧騒の中に立ち尽くし、手の中の木札を見つめた。


(……兵士さん。君のその『脆弱性(優しさ)』。……私が、最高の配当(3倍返し)で埋めて差し上げましょう。……私は、受けた『恩』という名の債務は、200%の利息をつけて返す主義ですので)


サトウは木札を懐にしまい、自由都市の深い闇の中へと、力強く、そして不純な野望を胸に踏み出した。

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