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第117話:市場の空白(ニッチ)と、偽名のポートフォリオ】

「……田中ぁぁぁ!! どこへ隠れても無駄よ! 貴方の水の味は、私の体が覚えているんだから!!」

王都新区画。かつて田中の家があった場所を貫く、権力が効率のために平らげた広すぎる直線道路の向こう側から、空気を物理的に凍結させる衝撃波を伴って、セレスティア・ド・アルカディアの狂信的な執念が響き渡った。

田中は、死体安置所の荷車の最下層、冷たくなった魔物の死骸と腐敗臭が渦巻く隙間に、その身を深く沈めていた。

全身を包むのは、全財産を投じて構築した物理的機密保持ガード、【鉄くずの鎧】。

それは自身の顔という個人情報を完全に遮断するための**「重厚なバイザー」**を備えた、鉄の防壁である。田中はこの蓋を、噴水施設への陽動と逃走劇を開始したあの瞬間から、一度たりとも上げていない。彼は今、この瞬間も「鉄の塊」に擬態したまま、外部との視覚情報を完全に遮断し、自身の存在を王都のインデックスから物理的に抹消し続けていた。

ガタ、ガタン、と荷車が新区画の境界、裏門への検問所へと近づく。

荷車を引く老御者の背中越しに、衛兵の退屈そうな声が聞こえる。田中は、魔物の死骸から染み出す冷たい体液と、鉄くずの鎧の内側に籠る自身の脂汗を感じながら、蓋の暗闇の中で浅い呼吸を繰り返していた。

(……ふむ。間一髪。まさにデッドラインぎりぎりの脱出でしたな。……あぁ、今、私のバックオフィス(脳内)では、全資産の損切りを告げる警報が、心臓の鼓動を上回る速さで鳴り響いています。……噴水の水槽に放出したあの魔力の在庫(純水)は、今頃、セレスティア様の広域凍結魔法という名の強引な接収によって、巨大な氷塊へと資産形態を変えていることでしょう。)

背後で、再び空を焦がすような青白い光が放たれた。彼女が、噴水の水が「本物の田中」ではないと気づき、憤怒を爆発させた証拠だ。

その魔力の余波が、荷車を覆うボロ布を激しく揺らし、微かな冷気が鉄くずの鎧の隙間から滑り込んでくる。

(……誤算です。私のささやかな不動産(わが家)を強引に潰してまで強行されたこの再開発プロジェクト……。その結果として出来上がったこの『無駄に見通しの良い直線道路』が、今度は私の逃走を阻む最大の敵(障害)になるとは。……しかし、この『死体の山』という名のカモフラージュだけは、都市計画の計算外だったようですな。)

荷車がゆっくりと、重い鉄の裏門を抜ける。

検問の衛兵は、凄まじい悪臭を放つ「死体とゴミの山」を詳しく検分する手間を惜しみ、鼻をつまんで通過を許可した。皮肉にも、腐敗臭という不衛生なノイズが、田中の個人情報を守る最強のファイアウォールとして機能していた。

王都の喧騒が遠のき、街道の湿った土と森の香りが、腐敗臭の中に混ざり始めた。

数キロ進んだ街道の林の中で、田中は荷車から音もなく滑り落ちた。

そこには、王都の煌びやかな光も、氷点下の令嬢もいない。ただ、静まり返った辺境の夕闇があるだけだった。

田中は、逃走以来ずっと閉じ続けていた鉄くずの鎧の「蓋」を、震える手でようやく跳ね上げた。

冷たい夜気が、バイザーの中に溜まっていた熱と、脂で汚れた顔を撫でる。

彼は這うようにして森の奥、誰の目にもつかない巨木の根元へ向かった。そして、これまで自身の正体を守り抜いてきた物理的機密保持ガードを、一つずつ慎重に解除していった。

ガシャン、と音を立てて脱ぎ捨てられた、血と泥にまみれた**【鉄くずの鎧】。

全財産を投じて構築した、物理的な最終防壁。だが、これを持って歩くことは、追跡者に「異常な鉄の反応」を知らせるようなものだ。田中は、その『蓋』を含めた鉄の構成体を、腐葉土の下へと深く、深く埋めた。文字通りの一括償却(全損処理)**だ。

「……さて。これより本プロジェクトは第2フェーズへと移行します。まずは、徹底的な『ブランド・ロンダリング』が必要です。」

田中は足元の泥を両手で掬い、22歳の若々しい顔に塗りたくった。洗練された商社員のような面影を消し、髪を無造作に乱し、着ていた衣服を引き裂いて「食い詰めた避難民」を演出する。

そして、懐から取り出した手帳の「田中」と書かれたページを破り捨て、新たな空白に刻んだ。

【新規設立法人(偽名):サトウ】

【業種:しがない雇われ運搬人ポーター兼、三流の水魔法使い】

「これからは『サトウ』です。効率を捨て、あえて無駄な詠唱を行い、あえて濁った水を出す。……生存という最大利益のためには、致し方ありません。」

その時、森の街道側からガサリと音がした。

現れたのは、王都の混乱から逃れてきた、食い詰めた様子の行商人一行だ。

サトウ――元・田中は、瞬時に卑屈な笑みを浮かべ、腰を低くした。

「……おい。そこで何してる、汚ねえ兄ちゃん。」

行商人の男が、荷車の引き手を握り直しながら尋ねる。サトウは、その目に映る自分が「ただの泥まみれの敗残兵」であることを確認し、内側で満足げに頷いた。

「ああ、これは旦那。王都の徴用から逃げ出した、ただのしがないポーターでございます。格安の賃金(スポット契約)で承りますが……いかがでしょう?」

51歳の不純な再起。

彼は王都という巨大市場を損切りし、辺境という名の「未開拓市場ブルーオーシャン」へと、サトウとしての一歩を踏み出した。

背後、王都の空は依然として青白く凍りついていたが、その光はもはや、この「名もなきポーター」に届くことはなかった。

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