第116話:戦略的エグジット〜名水の残滓を振り切って〜
「……待てっ、田中! 逃げるなって! その鎧、重すぎて全然スピード出てねえぞ!」
ザックの不用意な、しかし戦場でも通るほどに通り過ぎる叫びが、無機質に整地された新区画の直線道路に空虚に響き渡った。
その瞬間、田中の纏う安物の錆びた全身鎧――アイアンウォール(自称)――は、物理的な重さとは別の、背後から突き刺さる「絶対零度の魔力」によって、その関節部から凍りつこうとしていた。
(……ザックさん。ええ、あえて『さん』付けで呼ばせていただきますよ、ザックさん。君のその口という名の『致命的なセキュリティホール』から、私の全人生を左右する最高機密がダダ漏れですな。……あぁ、今、私のバックオフィス(脳内)では、全資産の損切りを告げる警報が、心臓の鼓動を上回る速さで鳴り響いています。)
田中の懸念は、コンマ数秒後に最悪の形で具現化した。
馬車から降り立ち、解体所に漂う「空気」を検分していたセレスティア・ド・アルカディアの動きが、真空に固定されたかのように静止したのだ。
「……今、なんと呼んだかしら?」
彼女の呟きは、新区画の熱気を一瞬で氷点下へと叩き落とした。
鋭い視線が、ガシャガシャと不恰好な金属音を立てて逃走する「鉄のゴミ箱」のような鎧の背中を射抜く。
「……タナカ? ……死んだはずの、私の『蛇口』と同じ名前……。……いいえ、あの無様な逃げ方。見覚えはないけれど、この空間に漂う水の残滓……。魔法の響きを一切妨げない、この『真空』のような水の純度は、私の喉に、あの懐かしい絶品の名水の味を思い出させるわ……。」
セレスティアの唇が、三日月のように吊り上がる。
彼女にとって田中とは、自らの魔法を完璧に励起させるための「最高のデバイス」であり、生活の質を担保する「至高のインフラ」だった。その再来を予感し、彼女の瞳が、獲物を定めた捕食者の愉悦に染まる。
「……追え。あの鉄の塊を逃がすな。指一本動かせなくなるまで追い詰め、私の前へ引きずり出しなさい。……田中。もし貴方が、私の喉を捨てて別の誰かを潤そうとしたのなら……八つ裂きにしてから、永久に凍らせて我が家のオブジェにしてあげるわ。」
再開発の罠:わが家の跡地を駆ける
田中はザックへの殺意に近い皮肉を脳内で反芻しながら、かつて自分の家があった場所を貫く、忌々しくも広い通りを全力で走る。
ポチもいない、予備の魔石もない。残されているのは、この重い鎧と、自らの「水生成」というスキルのみだ。
(……誤算です。私のささやかな不動産(わが家)を強引に潰してまで強行されたこの再開発プロジェクト……。その結果として出来上がったこの『無駄に見通しの良い直線道路』が、今度は私の逃走を阻む最大の敵(障害)になるとは。……都市計画における『プライバシー保護』の欠如が、今、ブーメランとなって私の後頭部を直撃しておりますな。)
かつてのスラムであれば、曲がりくねった路地や崩れかけの家屋が死角となったはずだ。
しかし、今のこの場所は、権力が「効率」の名の下にすべてを平らげた石畳の平野。隠れる場所など、一箇所も存在しない。
(……この辺りですよ。私が安眠を貪っていた寝室があったのは、今や騎兵が全速力で駆けるための滑らかな舗装路。……私のプライバシーという名の資産価値は、完全にゼロですな!!)
背後からは、侯爵家の精鋭騎兵の蹄の音が迫る。
田中は走りながら、鎧の籠手の隙間から地面に向けて、**『超高圧水流』**を放ち続けた。
目的は攻撃ではない。路地を物理的に「水浸し」にすることで、セレスティアの得意とする氷魔法の『触媒』をあえて提供し、彼女を「足止め」するための不純な罠だ。
「……セレス様。貴女なら、この大量の水を放っておけず、つい広域凍結魔法の練習台にしたくなるはずだ……。その詠唱に要する数秒のリードタイムこそが、私が求める最大の利益です!!」
資産ゼロの抵抗:不純な残業
田中は、新区画の端にある建設途中の噴水施設――積み上げられた建築資材の影に滑り込んだ。
全身の筋肉が痙攣し、安物鎧の重さが、文字通り「死体袋」のように感じられる。
手元に魔導核などという高価な代替品はない。田中は、噴水の水槽に向けて、自らのなけなしの魔力を絞り出し、**ただの「最高純度の水」**を大量に生成し始めた。
(……全財産をこの鎧という防壁に投じ、予備のキャッシュ(魔石)など一点もありません。ならば、私自身の『在庫(魔力)』を市場に一気に放出し、探知センサーをオーバーフローさせるしかありませんな。……あぁ、実に無駄なコストだ。無給のサービス残業にも程があります。)
噴水から溢れ出す、異常なまでに澄み切った水の山。
それは魔力探知を行う者にとって、暗闇の中で巨大なサーチライトを振り回すような「異常な信号」となる。
新区画に展開していた魔術師たちが、一斉にその方向へ顔を向ける。
セレスティアの馬車も、その「かつて味わったことのある最高の信号」に、一瞬だけ停止した。
「……この魔力の通り方……間違いないわ……あっちね!!」
馬車が急旋回し、噴水へと向かっていく。
その隙に、田中は泥を塗りたくって「ただの鉄クズ」に見せかけた鎧のまま、裏門付近に待機していた死体安置所の荷車の中に、魚の死体のように紛れ込んだ。
「……さようなら、セレス様。私は、また一介の、ただの『鉄ランク冒険者』として、再上場することにします。……ザックさん。君のせいで私の退職金はマイナス決済ですが……命があるだけ、減損処理で済ませるとしましょう。」
荷車が、王都の裏門へとゆっくりと動き出す。
背後で、王都を揺るがすようなセレスティアの「……田中ぁぁぁ!! どこへ隠れても無駄よ! 貴方の水の味は、私の体が覚えているんだから!!」という、執着の塊のような絶叫が響き渡った。
田中はバイザーの中で、そっと目を閉じ、低血糖の意識の中でこう呟いた。
「……ふむ。名前という個人情報の価値を、改めて痛感しましたな。……次からは、偽名という名の『持ち株会社』を複数設立することにします……。」
不純な51歳の夜は、こうして最悪の形で幕を開けた。




