第115話:後方支援(ロジスティクス)という名の安全圏
ギルド長との、あの吐き気のするような「敵対的買収」の通告から数時間。王都は、もはや静寂を忘れた巨大な軍需工場へと変貌していた。
北から迫るランド・ドラゴンの影。その恐怖は、人々に「協力」という名の狂気を強いる。
「……ふむ。カントリー・リスクの顕在化と、法的強制力による徴用。現状、私の資産ポートフォリオにおいて、最も守るべきは『自身の生存』という、目下最大のブラックボックス。……ならば、これより戦略的撤退を開始します。」
田中は、ギルド長に指定された『第4物資集積・魔物解体所』へ向かう道すがら、既に「命がけの設備投資」を強いられていた。
彼が向かったのは、高級な武具店ではない。裏通りのさらに奥、廃材同然の防具が積み上げられた、鉄錆の臭い漂うジャンク・ショップだ。
「……この、視界が悪く、関節も軋み、中身が誰かも判別できない『鉄のゴミ箱』。これを買い取らせていただきたい。」
「客さん、正気か? そいつは重いだけで、今どきの冒険者は見向きもしねえ。銀貨三枚でいいよ。」
田中は、震える手で財布の底をさらった。
ザックたちの装備を新調し、宿代を払い、ようやく貯まり始めていた「王都脱出用」の大切な運転資金。その殆どが、この錆びついた全身鎧へと消えていく。
「……いいでしょう。全財産をほぼ全て投じますが……セレス様に正体を特定され、八つ裂きにされた上で『終身蛇口』として接収されるリスクに比べれば、この程度の設備投資は誤差の範囲内ですな……。」
田中は無言で、油臭く重苦しい鎧を装着した。厚いバイザーをガチャンと閉じた瞬間、視界は極端に狭まったが、同時に奇妙な安心感が彼を包んだ。
「……これで、私の『顔』という個人情報は、この**アイアンウォール(鉄壁)**によって保護されました。鉄ランクの私に相応しい、物理的な機密保持ですな。」
同行するエレンは、血も涙もない「鉄の塊」に変貌した田中を見て、ただただ呆れ果てていた。
解体所という名の、不純な物流ライン
第4解体所。そこは、前線で仕留められた魔物の死体が、無造作に山積みされた「肉の掃き溜め」だった。
エレンは、到着した「鎧姿の鉄塊」を現場へ誘導しながら、不安げに周囲を見渡した。
「田中さん、本当にその格好で作業するつもりですか? ……ギルド長からは『死ぬまで働け』って言われてるんですよ。動きにくい鎧なんて着て、ノルマが達成できなかったら……」
「……エレンさん。ノルマとは達成するためにあるのではなく、妥協点を探るためにあるのです。なお、契約条件に基づき、私は私なりの『最短工数』で進めさせていただきます。進捗報告は一時間ごとに。」
バイザーの奥で、田中の目は冷酷に周囲をスキャンしていた。
通常、ドラゴンの亜種を解体するには、熟練の解体師が三人がかりで半日はかかる。だが、田中はここで、誰にも悟られないように『隠蔽された技術』を振るい始めた。
彼は平凡な解体ナイフを手に取り、死体の陰に隠れて、指先から針のように細く、鋭い**『超高圧水流(隠しウォータージェット)』**を放つ。
シュン、という微かな音と共に、竜の強固な皮膚がバターのように裂け、魔石を包む組織だけが、分子レベルで剥がれ落ちていく。
(……見せていいのは、凡庸なスキルの範囲内まで。……しかし、納品ペースが遅すぎれば、無能と判断され激戦区への配置転換を命じられる。……『少し手際の良すぎるベテラン』。この微妙なラインを維持するのが、最も高度なリスクヘッジですな。)
返り血をアイアンウォールで弾き飛ばしながら、田中は淡々と、しかし確実に、死体の山を「換金可能なアセット」へと変えていった。
債務者たちの帰還:使い潰された子供たち
解体作業がピークを迎えた頃、解体所の搬入口に、ガランという金属音と共に数名の冒険者が「放り込まれた」。
それは、銀ランクパーティー『黄金の獅子』の使い走りとして、激戦区の露払いに駆り出されていた者たちだった。
「……くそっ、あいつら、俺たちを盾にしやがって……!」
泥と血にまみれ、装備の一部を欠損させたザック、ニコ、ミアの三人が、そこにはいた。彼らをここに運んできた銀ランクのリーダー格の男は、唾を吐き捨てて、横にいたエレンに言い放った。
「おい、このガキどもはもう動けねえ。死体運びの雑用でも何でもさせておけ。……命があるだけ、俺たちに感謝するんだな。」
「……ふむ。資産の損耗が激しいようですね。」
不意に響いた金属質の声に、ザックたちが顔を上げる。
目の前に立っているのは、血まみれの全身鎧を纏い、黙々と竜の心臓を抉り出している「鉄の怪人」だった。
「……!? その声……田中か!? なんだよその鉄クズみたいな格好……」
「ザック。職場放棄からの、最悪の形での復帰ですな。……その惨状を見るに、新しい『雇い主』は、君たちを単なる消耗品として、適切に使い潰したというわけですか。実に合理的な、そして残酷なマネジメントです。」
「……うるせえ! 俺たちは、あいつらなら俺たちの力を……!」
「……認められたのではなく、ただの『安価な防波堤』として利用されただけです。絶望している暇があるなら、あちらの配給食を摂取し、直ちに待機しなさい。ここなら、まだ生存確率は高い。」
田中は冷たく言い放ったが、その内側では、ザックたちの生存を「不純な損得」で計算していた。
崩壊するデッドライン:氷の戦術家
だが、平和(不純な逃走準備)は長くは続かなかった。
突如、解体所の空気がピンと張り詰めた。魔力に敏感な者なら、まるで周囲から不純物が消え、真空に放り出されたような錯覚を覚えるほどの「極限の清浄」が解体所の一部に残留していた。
エレンが、顔面を蒼白にして田中の元へ駆け寄ってきた。
「た、田中さん! 大変です……! 今、防衛総指揮を執っておられるセレスティア様が、このエリアへ直接『高純度な水の供給源』を探しに来られます!」
「……っ!!」
田中のアイアンウォールが、物理的な振動を始めた。ガチガチと、不吉な金属音が解体所に響く。
「セレスティア様は、ランド・ドラゴンの進軍路を広域凍結させる大魔法の準備に入られています。でも、通常の魔導水では伝導率が低すぎて威力が足りないって……! 『私を満足させる、あの魔力抵抗が皆無の、不気味なほど純粋な水を寄越せ! さもなくば防衛ラインが崩壊する!』と仰せなんです! 田中さん、お前の納める魔石はいつも洗ったように綺麗ですよね!? それだけの水を用意できる手段があるんでしょう!? お願い、今すぐ供出して!」
(……出た。出ましたよ。ランド・ドラゴンよりも、死神よりも、私の『不純な余生』を八つ裂きにする、最大級のデッドライン……!! 私が水を生成できると知られれば、一生彼女の『大魔法用外部バッテリー』として酷使される……いや、八つ裂きにされてから永久保存される……あの理不尽な圧力がすぐそこまで来ている……!)
「……あいにく、当ラインに魔法触媒となるような純水はありません。他を当たってください。失礼。」
「何を言ってるんですか! 侯爵家の方ですよ!? しかも王都の命運がかかってるんです!」
「田中、お前なら出せるだろ!? いつも俺たちにくれてた、あの魔力がスッと通るような不気味なほど透明な水を……!」
ザックが、最悪のタイミングで口を開いた。
「ザック!! 余計な発言を止めなさい!! ……エレンさん、私は……急用を思い出しました。これより『一時的な事業閉鎖(逃走)』に入ります!」
遠くから、冷酷なまでに美しい高笑いと、すべてを見透かすような鋭い魔力の波動が近づいてくる。
「……逃げる……! 捕まって『死の偽装』がバレて、八つ裂きにされてから『侯爵家の永久魔法蛇口』にされるくらいなら、ドラゴンの口の中に飛び込む方がマシですな……!!」
51歳の不純な逃走劇。
セレスティアという名の「最強のブラック雇用主」から逃れるため、田中は錆びたアイアンウォールをガシャガシャと鳴らし、裏口へと猛ダッシュを開始した。
背後から、「……あら? この空気、この微かな……魔法の響きを一切妨げない『真空』のような水の残滓。どこか懐かしい『名水』の気配がするわね……?」という、魂を凍りつかせるような呟きが聞こえた気がした。セレスティアの「蛇口(田中)」に対する異常な嗅覚が、今、鎧の中の獲物を捉えようとしていた。




