第112話:福利厚生の優先順位と、現場の沈黙
「……ふむ。やはり、拠点。これが直近の最大課題ですな。」
王都の北門を抜けながら、田中は手帳に記した「王都・優良居抜き物件リスト」を眺め、独り言のように呟いた。
その背後を歩くザック、ニコ、ミアの三人の姿は、どこからどう見ても「冒険者」のそれではない。
腰に剣はなく、背中に杖もない。数日前の強制執行で全てを失った彼らは、新しい武器を買う資金こそ手にしていたが、リーダーである田中の指示がないまま、ただ空の「魔石回収用キャンバスバッグ」を肩に下げているだけだった。
「……なあ、今日も『これ』だけなのか?」
ザックが、自分の空っぽの腰に手をやりながら、不安げに囁く。
「……田中さんのことだ。きっと、僕たちの資質を見極めて、最高のタイミングで最高の武器を用意してくれてるんだよ。今は、指示に従おう。」
ニコが自分を納得させるように応じ、ミアは無言で、何も握っていない右手の拳を強く、強く握りしめていた。
彼らにとって武器は命だ。だが、この異様なほど「清潔」で「合理的」な男の支配下に入ってから、彼らの常識は音を立てて崩れていた。田中に悪気はない。ただ、彼には武器という概念が、最初から存在しなかった。
第一営業日:効率化の萌芽
「本日の稼働目標を上方修正します。昨日の45個は、あくまで試運転。今日からは実戦的なペース配分でいきますよ。諸君、足元に注意を払いなさい。魔石は『拾う』のではなく『回収』するのです。これは仕入れ業務における物流の最適化ですよ。」
森に到着するや否や、田中の指先が舞った。
シュバッ、と空気を切り裂く高圧水流。茂みから飛び出そうとしたフォレスト・ウルフの眉間を正確に撃ち抜き、血の一滴も飛ばさぬまま、洗浄済みの魔石を放り出す。
「……はい、回収。……はい、回収。ザック殿、3時の方向に一つ在庫が落ちました。……はい、回収。ニコ殿、少し足運びが遅い。この工程ではコンマ数秒の遅れが全体のリードタイムを圧迫しますよ。」
武器を持たないザックたちは、もはや「戦士」としての自意識を横に置き、必死に田中の背中を追った。
更地に埋もれた、あの使い古しの剣。新調する暇もなく、ただ「効率」という名の大波に飲み込まれていく。
背後からの奇襲? 心配無用だ。田中の周囲360度は、不可視の「全自動防衛システム」が構築されている。
この日、回収された魔石は65個。王都ギルドの換金窓口に現れた彼らを見て、受付嬢エレンは目を見開いた。
「……65個、ですか? 全て無傷で?」
「左様です。検品をお願いします。なお、この作業時間は極めて非生産的ですので、次からはもっとスケーラブルな人員配置をお願いしたい。」
田中が淡々と告げる中、背後の三人は、かつて自分たちが命を懸けて戦った狼の魔石が、まるで「規格品のボルト」のように扱われる光景を、空っぽの腰を弄りながら見守っていた。
第二営業日:加速する収益
翌朝。田中の足取りはさらに軽い。
「物件の候補地を三カ所に絞り込みました。一軒は下水道近くですが、交通の便がいい。もう一軒は家賃こそ高いが、将来的な資産価値が見込める……。さて、本日はさらなる増産を目指しますよ。ノルマは設定しませんが、青天井で獲りに行く。それがベンチャー企業の成長曲線というものです。」
この日の森は、もはや「狩り場」ではなく「全自動加工工場」であった。
田中の水流はより鋭利に、より広範囲に。
ザックたちは、空のバッグが瞬く間に魔石で満たされていく重みに、肉体的な疲労よりも、冒険者としてのアイデンティティが摩耗していく「喪失感」を強めていた。
(……俺の剣は、いつになったら届くんだ?)
ザックは何度も、あの土埃の中に消えた錆びかけた剣を思い出していた。田中のことだ、きっともっと良いものを……。あるいは、自分たちがまだ信頼されていないのか。
だが、その疑念を口にする暇さえ、田中は与えない。
ギルドに持ち込まれた魔石は88個。
受付嬢エレンの顔は、もはや引き攣りを通り越し、恐怖に近い色を浮かべていた。
「……また、昨日より増えています……。鑑定結果は全て『特級』。……不気味なほど、完璧ですね。」
「当然です。品質管理は私の最低限の矜持ですから。エレン殿、検品を急いでください。拠点の選定に関する役員会議がありますので。」
田中は窓口で淡々と事務処理をこなす。エレンは言葉を失い、ただ震える手で魔石を袋に戻していく。背後に並ぶ、手ぶらのまま虚空を見つめる少年少女たちの姿に、彼女は言いようのない戦慄を覚えていた。
田中たちがギルドを出た後、エレンはよろよろと奥の部屋へ消えていった。報告を受けたギルドの役人たちも、ただ沈黙するしかなかった。傷一つ負わず、血の一滴もつけず、武器すら持たずに、王都の魔石市場を飽和させようとする四人組。その存在は、もはや既存の冒険者ギルドの常識では計り知れない「異物」であった。
第三営業日:無機質な虐殺と静かなる摩耗
三日目。田中の指先が刻むリズムは、さらに速さを増した。
「諸君、今日はさらなる効率化を模索します。魔石を拾い上げる際の屈伸運動を、よりスムーズに。いいですか、無駄な動きは『機会損失』と同義です。110%の稼働率を目指しましょう。」
シュバッ、シュバッ、シュバッ。
狼が吠える隙さえ与えない。草むらを揺らす風の音と、田中の水流が空力を裂く音だけが交互に響く。
ザックは、自分の手が魔石の冷たさと硬さに慣れていくのが怖かった。かつて剣の柄を握っていたタコが、今は袋の紐を固定するために使われている。
この日の収穫は、実に118個。
王都ギルドの窓口では、もはや他の冒険者たちも彼らを避けるように道を開けた。
エレンは無言でそれを受け取り、無言で書類にハンコを押す。三人の目は、もう自分の足元しか見ていなかった。
夜:経営判断のバグと、爆発する現場
その夜、安宿「青い鳥亭」の食堂。
テーブルの上には、連日の「収穫」によって積み上がった銀貨が、眩いばかりの山を成していた。
田中は満足げに手帳を閉じ、豪華な食事を終えた三人に視線を向けた。
「さて。諸君。本日の経営会議の議題は『拠点の確保』についてです。このまま安宿での変動費を垂れ流すより、固定資産として拠点を構え、防衛環境と業務効率を向上させるべきだと判断しますが……どうですか? 宿のまま生活を続けるか、それとも早期に拠点を築くか。経営陣への要望はありますか?」
「………………。」
三人の間に、ナイフでも切れないほど重い沈黙が流れる。
いつもなら「個室がいい!」とはしゃぐはずのニコも、好物の肉料理を前にしたミアも、俯いたままだった。
田中の眼鏡の奥の瞳が、不思議そうに彼らを観察する。
「……どうしました? 予算の範囲内であれば、可能な限りのオプションは認めますが。防音室ですか? 地下貯蔵庫? あるいは最新のセキュリティ設備ですか? 要望があれば今のうちに計上しますが。」
「……田中。」
ザックが、震える声で口を開いた。
その拳は、テーブルの上で白くなるほど握りしめられている。
「拠点も、家も……ありがたいと思ってるよ。でもさ……。……拠点より先に、俺たちに武器を買わせてくれよ。」
「……武器?」
田中が、まるで聞いたこともない単語を突きつけられたかのように、目をパチクリとさせた。
「……ああ、なるほど。諸君、何か護身用のナイフでも、物件のDIY用に欲しかったのですか? 確かに、定規代わりにもなりますしな。」
「ふざけんなッ!!」
ザックが叫び、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。その目は、恐怖と屈辱、そして理解されない絶望に濡れていた。
「護身用とか、そんなんじゃねえ! 俺たちは冒険者なんだ! 魔石を拾うための『荷車』じゃねえんだよ! ……今日、森で一瞬、田中が次の獲物を追って視界から消えた時……俺たちの目の前に、はぐれた狼が現れたんだ。その時、俺……、いつものクセで腰を叩いたんだ。更地に埋まった、あの剣を抜こうとして……でも、そこには何にもなかったんだよッ!!」
「………………。」
「拠点を構える金があるなら、まず先に武器だ! 俺たちの、命を守る武器を……! お前、まさか……本気で、今まで忘れてたのか!? 俺たちが丸腰で、どんな思いで森を歩いてるか、一ミリも考えてなかったのかよ!!」
田中は、持っていたスプーンを空中で静止させたまま、固まった。
眼鏡の奥で、瞳が激しく左右に揺れ、脳内の「在庫リスト」と「優先タスク」が猛烈な勢いで再照合されていく。
(……あ。………………あー。)
田中の脳内アーカイブが、猛烈な勢いで「労働安全衛生」および「従業員の職業的誇り(ワークプライド)」に関するページをスキャンし始めた。
51年の人生経験。中間管理職としての記憶。現場の不満が爆発する瞬間の、あの特有の血の気が引くような感覚。
(……私としたことが。……あろうことか。……これは、工場の全自動化に成功し、生産性を極限まで高めておきながら、現場の作業員から『保護具』を奪い去り、文字通りの『歯車』として扱っていたようなものですな。……しかも、彼らにとっての武器は、私にとっての『通帳』や『印鑑』と同じ、自己同一性を担保する最重要ツールだったはずだ。)
自分は魔法があるから、物理的な武器を「減価償却の対象にすらならない不要なコスト」と切り捨てていた……のではない。
文字通り、意識の外に放り出されていたのだ。
更地で全てを失った12歳の彼らにとって、武器は単なる攻撃手段ではなく、冒険者としての『存在証明』だった。それを、あろうことか「衣食住」という基礎インフラの項目から、完璧に漏らしていた。
「……失礼。……深く、お詫び申し上げます。完全に、私のミスです。失念しておりました。」
田中は、51歳の精神で、かつてないほど深々と、テーブルに頭がつくほど下げた。
「えっ……? あ、謝った……?」
「ザック殿。君の指摘は、経営者としての私の致命的な欠陥を突くものでした。……『武器を買う』という、冒険者としての基本動作を、自分には不要だからと完全に忘却していた。これは経営戦略における『現場環境の著しい軽視』。……いえ、単なる私の、あまりにも酷い度忘れです。」
「……やっぱり忘れてたのかよ!!」
ザックが脱力して座り込む。その顔には、怒りよりも「やっぱりな」という呆れと、ようやく伝わったという安堵が混じっていた。
「はい。……拠点の選定は一時凍結、ペンディングとします。明日の朝一番で、王都で最も高名な武具店へ向かい、一括購入(バルク買い)ではなく、諸君に最適化された装備を調達します。……予算に上限は設けません。諸君が『手ぶら』の恐怖から解放され、かつ私のバックアップがなくとも生存可能な、最高級の設備投資を断行します。これが、当パーティーの福利厚生における最優先事項です。」
「……上限なし、かよ。」
ザックが、ようやく安堵したように笑った。
ニコとミアの瞳にも、数日ぶりに「冒険者」としての光が灯る。
「本気です。……さあ、明日はハードな『市場調査』になりますよ。今夜は栄養を摂って、速やかに就寝してください。……増え続ける魔石の稼ぎを、存分にキャッシュアウトしましょう。……解散!」
その夜、田中は手帳の『拠点確保』という文字を力強く二重線で消し、その上に赤いペンで『武装強化:現場のセーフティデバイス確保(最優先)』と書き込んだ。
51歳の不純な再起。
まだ武器を持たぬ「ホワイト・アイズ」が、ついに真の意味で王都の武具市場を揺るがそうとしていた。




