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第110話:インフラの再取得と侵奪の対価

「……行こう。次は、失った分を倍にして回収する番です。不採算な損失を計上したまま終わるなど、私のキャリアに対する重大なコンプライアンス違反ですからな。」


王都の衛兵詰所。カスパルの介入によって、書類上は「白」へと洗浄された田中は、冷たく威圧的な石造りの扉を背に、そう吐き捨てた。

執行官の放火によって、すべては灰になった。だが、田中の右手に握られた泥まみれの鞄の底には、焼け焦げた布に包まれた**「手持ちの銀貨4枚」**が、執念のように残っていた。執行官の炎から、反射的に、そして商社マンとしての本能で掴み取った、まさに「命の次に大事な」最後の運転資金。


その金属の鈍い輝きを見つめる田中の瞳には、22歳の若々しい瑞々しさは微塵もなく、51年の修羅場を潜り抜けた老獪な、そして不気味なほどの合理性が宿っていた。


だが、現在の田中の姿は、その鋭い眼光とは裏腹に、泥と煤にまみれ、衣服は執行の熱風で焼き切られたほぼ全裸の惨状であった。首元にぶら下がる鉄級のタグだけが、辛うじて文明人であることを証明している。この異様な姿のまま大通りを歩けば、即座に不審者として再連行されるのは明白なリスクである。


田中は泥だらけの足を、一歩、また一歩と、ギルドに近い「防具・野営装備」の専門店へと向けた。


カラン、と乾いたドアベルの音が響く。

「……いらっしゃい。……って、なんだいその格好は! 衛兵を呼ぶぞ!」

カウンターの奥から顔を出した店主が、泥水を滴らせた全裸の男を見て悲鳴を上げる。当然の反応だ。


しかし、田中は動じない。震えることも、卑屈になることもなく、商談を円滑に進めるための慇懃な一礼と共に、冷徹な声を紡いだ。


「店主殿、少々よろしいでしょうか。お騒がせして誠に恐縮ですが、私は今朝の執行で家を焼かれた被災者……見ての通り、ギルド所属の正規冒険者ですわ。……さて、単刀直入に商談をしましょう。現在、私の手元には銀貨4枚の即時決済可能なキャッシュがあります。」


田中は泥まみれの鞄から、鈍く光る銀貨4枚をカウンターに並べた。店主の目が、疑念から驚きへと変わる。


「……この予算で、このサイズの野営服を四人分。それと、最も耐久性に優れた革靴を四足、用意していただきたい。……ええ、無駄な装飾は一切不要です。機能性という名の『インフラ』を納品してください。言っておきますが、私は『余計な付加価値』に金を払うほど、おめでたい頭はしておりませんので。ブランドなどという実体のない虚飾に、私の貴重な資本を割く道理はありません。コストパフォーマンスの欠如した商品は、私にとって産業廃棄物と同義ですよ。……さあ、迅速な見積もりをお願いします。」


店主は、田中の22歳の瑞々しい顔に宿る、老獪な商人の気迫に圧倒された。

「……あ、ああ……わかったよ。丈夫なキャンバス地の服と、硬めの革靴だな。それで銀貨4枚なら、ギリギリ原価だが……事情が事情だ、持っていきな。」


「……おい、田中。嘘だろ?」


店を出たところで、ようやく人心地ついたザックが、掠れた声で田中の肩を掴んだ。

新調された、糊の効いた服と、指で弾けば硬い音がするほど頑丈な革靴。それだけで、なけなしの銀貨4枚は綺麗に消え去った。


「これで全部か? 武器は? 俺たちに、この王都の外を丸腰で歩けってのか!? 予備の短剣一本すら、砥石一つすら買わないなんて……お前、俺たちを殺す気か!?」


田中は立ち止まり、新調したばかりの革靴の踵を、石畳にコツ、コツと不気味なリズムで叩きつけた。


「……ザック。君、商売の基本を忘れていませんか? 泥沼の経営状況でまず優先すべきは、一か八かの白兵戦に耐えるなまくら刀の購入ではありません。獲物を追い、獲物から逃げ、確実に成果を持ち帰るための『物流インフラ(足回り)』の確保です。武器? そんな不採算な投資、今の段階でするわけがないでしょう。……そんなもん、自分の『指先』を稼働させれば、原材料費ゼロ、減価償却不要のローコストで済みます。行くぞ、森へ。残業の時間ですよ。」


「はあ? 『残業』? なあ田中、本気で言ってんのか!?」


ザックの怒号に近い困惑を背中に浴びながら、田中は新調したばかりの革靴の感触を確かめるように、王都の北門を抜けた。

目的地は『東の古森』。鉄級冒険者の登竜門であり、同時に「無計画な素人」を最も多く飲み込んできた、湿った死の揺り籠。


太陽はすでに傾き、森の境界線は巨大な怪物が口を開けて待っているかのような、深い影に覆われている。


「おい、待てって! 本当に丸腰で行く気かよ!? ニコもミアも震えてるじゃねえか!」

ザックが田中の前に回り込み、必死にその進軍を止めようとする。だが、田中の歩調は一切乱れない。22歳の若々しい脚が刻むリズムは、驚くほど正確で、事務的だ。


「ザック。今の我々の貸借対照表バランスシートを見てごらんなさい。負債は『家という名の固定資産の滅失』、資産は『新品の靴と服』。流動資産……つまり手持ちの現金はゼロです。この状況で、明日という名の『納期』を迎えるための唯一の手段は、圧倒的なスピードで原材料を調達し、即座に現金化すること。……武器? そんな重くてメンテナンス費のかかるデッドウェイト、今の我々の機動力キャッシュフローを削ぐだけですよ。」


「理屈じゃねえんだよ!! 狼が出たらどうすんだって聞いてんだ!」


「……出ましたね。リサーチ通りです。」


田中の視線の先、森の入り口にある巨大なシダ植物の陰から、黄金色の瞳が一つ、また一つと点灯した。

森狼フォレスト・ウルフ」。

一体であれば鉄級の敵ではない。だが、彼らは常に「群れ」という名の、組織的な暴力を行使する。


「ひ……っ!」

ニコが悲鳴を上げ、ミアが震える手で何も持っていない自らの腰を叩く。そこに、短剣はない。

ザックは、武器のない己の拳を握りしめ、覚悟を決めたように一歩前に出た。


「……クソが! 田中、後ろに下がってろ! 俺が時間を稼ぐ、その間に……!」


「……ザック。君は、自分の指先をサーバーとして稼働させた経験はありますか?」


「はあ!? 何を……」


田中は、ザックの肩を、冷たく、それでいて不気味なほど安定した手つきで制し、前に出た。

狼たちが、一斉に低い唸り声を上げる。リーダー格の一体が、獲物の隙を突いて跳躍した。

鋭い牙が、田中の喉元を狙って宙を切り裂く。


その瞬間。


「……事務的に、処理します。」


田中の右手の指先が、空中でピアノを弾くように微かに動いた。


――シュパパパパパパパッ!!


夜の静寂を切り裂いたのは、鋭い剣鳴ではない。

それは、高圧洗浄機が錆を剥ぎ取るような、あるいは超高圧の切断機が鉄板を貫くような、無機質な「水の摩擦音」だった。


「……ガ……?」


空中で静止したかのように見えたフォレスト・ウルフの巨体が、次の瞬間、物理法則を無視した断面を晒してバラバラに崩れ落ちた。

血が吹き出すよりも早く、超高圧の「水の刃」が細胞を押し潰し、焼き切るように切断したため、断面は鏡のように滑らかで、月光を反射して怪しく光っている。


一歩も動かず、表情一つ変えず。

田中はただ、指先から放たれる「極小の、それでいて超高圧の水流」を、オフィスでのキー入力と同じ平熱で操り続けていた。


「……。……。……ぁ……」


ザックは、その場にへたり込んだ。

脳裏に、あの日、禁じられた境界線を越えた先で見てしまった「地獄」が、鮮烈にフラッシュバックする。


――大牙狼グレートウルフが、まるで精密機械で断裁されたかのように、首と胴体が綺麗に泣き別れになって転がっていた。切り口は真っ平ら。十体、二十体。奥へ進めば進むほど積み上がる、ランク外の死骸の山。

そこで、苛立った声で「ええい、どこにおるんや! あのガキども、返事くらいせえ!」と叫びながら、指先から放つ目に見えぬ「水の糸」で、森の主――フォレストベアを、掃除のついでに片付けられるゴミのようにチョンパしていた、あの男の背中。


「……田中……」


あの時、震えながら「田中が見つかる前に、早く帰ろう」と逃げ出した恐怖の根源が。

今、月明かりの下で鮮明に、残酷に、その正体を現したのだ。


「ザック。ぼんやりしている暇はありませんよ。ほら、魔石の回収。検品作業に移ってください。」


田中は、遺体に近寄ると、指先から針のような細い水流を出し、狼の胸元を精密に外科手術のように切り開いた。

「……見てください。筋肉を傷つけず、魔石だけを摘出する。これが最も『歩留まり』が良い。皮や肉? そんな重いもの、今の我々の運搬コストに見合いません。産業廃棄物として置いていきます。」


「お、おい……これ、毛皮だって高く売れるんだぞ……! もったいねえだろ!」


「『もったいない』という感情は、合理的判断の不純物です。今の我々に必要なのは、体積あたりの価値が最も高い『魔石』を、極限まで多く、迅速に持ち帰ること。……さあ、次の群れを探しに行きましょう。今夜中に銀貨20枚分のアセット(資産)を積み上げますよ。それが、我がパーティ『ホワイト・アイズ』の第一四半期、最初の目標です。」


田中は、返り血一つ浴びていない新品の靴の踵を鳴らし、さらに森の奥へと足を踏い入れた。


ザックは震える手で、田中が「摘出」した、傷一つない完璧な魔石を拾い上げた。

その魔石は、田中の瞳と同じように、冷たく、そして一切の情熱を排した美しさで輝いていた。


「……化け物……。お前、本当は何なんだよ……」


その呟きは、森を抜ける夜風にかき消された。

一行の背後には、不自然なほどに「綺麗に」解体された狼の残骸が、月夜に晒されるオブジェのように点々と残されていた。

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