第109話:公序良俗の死線
スラムを抜けるまでは、まだ良かった。
周囲は自分たちと同じか、それ以上に薄汚れた連中ばかりだ。パンツ一丁の姿で泥まみれになっていようが、誰も気に留めない。日常に溶け込んだ汚れは、スラムの住人たちにとっては視界のノイズにすらならない「風景」の一部だったからだ。焦げた臭い、泥の臭い、そして絶望の臭い。それらが混ざり合った空間において、田中の姿は特段、異質ではなかった。
だが、再開発の波が押し寄せる境界線を越え、ギルドへと続く「整備された大通り」に差し掛かった瞬間、空気は一変した。
魔法で磨かれた石畳は、陽光を反射して白く輝いている。行き交う人々は清潔な服を纏い、革の靴音を小気味よく響かせ、商談や世間話に花を咲かせている。整然と並ぶ商店の軒先からは、焼きたてのパンや香辛料の、豊かだがこの場には不釣り合いな香りが漂っていた。
そこに、泥水を全身から滴らせ、ほぼ全裸で鞄を抱えた22歳の若者が現れた。
22歳の若々しい肉体は、泥と煤で黒ずみ、所々に擦り傷が見える。だが、その瞳には51年分の経験を積んだ老獪な商社マンの、冷徹な計算と現状把握の光が宿っている。首元には、執行の熱風の最中でも、何ら特別な意志を介さずただそこにあった鉄級のタグが、泥に汚れながらも、確かにぶら下がっていた。
付き添うニコ、ザック、ミアの三人も、今朝の執行から逃げ出したままの、薄汚れた寝間着姿だ。その姿は、豊かな大通りの色彩の中で、そこだけ色が抜け落ちたかのような違和感を放っていた。
「……待て。貴様ら、止まれ。」
案の定だった。
二人の衛兵が槍を交差させ、田中の前に立ち塞がった。
衛兵の視線は、泥まみれで全裸に近い若者を不審者として、あるいは都市の美観を損なう汚物として射抜き、不快そうに鼻先を歪めた。石畳を汚す泥の滴りさえ、彼らにとっては維持管理の手間を増やす、明白な「罪悪」に等しい。
「何だ、その見苦しい姿は。貴様、公然わいせつの自覚があるのか。それとも、略奪にでも参加していた狂人か? 大人しく詰所まで来てもらおう。」
若い方の衛兵が、威圧的に槍の石突で地面を叩いた。硬い石の音が、田中の足元に響く。
田中は逃げるどころか、一歩前へと踏み出した。泥だらけの指で、自分の首から下がるタグを指し示す。その動作には、焦りも怯えもない。
「……待ってください、衛兵さん。私は不審者やありません。ギルドに所属しちょる正規の冒険者ですわ。……見てください、この鉄級のタグを。私は今朝、再開発の執行で家を焼かれ、命からがら逃げ出してきた被災者なんですわ。」
田中の丁寧な、けれどどこか事務的で居丈高な説明に、衛兵は田中の胸元で揺れる黒ずんだ金属の輝きを凝視した。
一瞬の沈黙の後、ベテランの衛兵が鼻で笑うような音を漏らした。
「……鉄級だと? 貴様のような、靴も履かず泥にまみれた全裸の若造が、冒険者を名乗るとは片腹痛い。鉄級など、そこら中の瓦礫の下の死体から剥ぎ取れる代物だろうが。そもそも、そんな立派な身分証があると言うなら、なぜ服の一枚も着ていない。言い訳にすらなっていないぞ。」
「だから、家を焼かれた言うてますやろ! 執行官のあんたたちの仲間が、逃げる間もなく全てを焼き払ったんや! 私はこのタグと鞄を掴んで逃げるのが精一杯やったんですわ! このタグだけが、私の持っちょる唯一の、本物の証明なんですわ!」
「ハッ、白々しい。どうせ執行の混乱に乗じて、瓦礫の中から拾ったか、誰かから奪った盗品に決まっている。身分証の偽装および盗取の容疑で連行する。言い訳は詰所でじっくり聞く。……おい、その汚いタグをこちらへ渡せ。」
衛兵が槍の先を伸ばし、田中の首元にあるタグを物理的に奪い取ろうとした、その瞬間。
田中は膝の力を完全に抜き、わざとらしく、それでいて劇的に、泥の中に激しく崩れ落ちた。
「……冗談やない! 冗談やないですよ衛兵様! 自分の正当な身分証を提示して、挙句に泥棒扱いなんてあんまりや!!」
田中の叫びが、大通りの活気ある喧騒を真っ二つに切り裂いた。
足を止めた通行人たちが、何事かと遠巻きにこの異様な光景を凝視し始めた。田中は泥の中に両手を突き、周囲の視線を一手に集めるように、天を仰いで嘆いて見せた。
「今朝、あんたたちの仲間にすべてを焼き尽くされ、着の身着のままで……いや、着るものすら奪われてタグだけを下げて逃げてきた人間に、今度は不当逮捕ですかッ! 拾う塵すら残さず焼き尽くしたんは、あんたら王都の執行官やないですか! 裸で放り出しといて、今度はタグすら奪うんですか!? これが、王都が誇る慈悲と法の姿ですかッ!!」
「だ、黙れ! 余計なことを喚くな!」
「これが王都の正義か! 被災者を詰所に放り込んで、事の真相を隠蔽するつもりかッ!! 正当な理由もなく、冒険者の身分を否定するんかッ!!」
田中の「営業」は止まらない。22歳の若々しい肉体という、視覚的に訴えやすい「若き被害者」の看板を最大限に活用し、衛兵の疑念を「権力の横暴」へと鮮やかに、かつ強引にすり替えていく。周囲の野次馬から「さすがにやりすぎじゃないか?」「執行の被害者なら……」「裸で放置は可哀想に」という、衛兵に対する非難めいた囁きが漏れ始める。
若い衛兵が顔を真っ赤にし、周囲の視線に耐えきれなくなったように、乱暴に田中の腕を掴んだ。
「……貴様、いい加減にしろ! 事情は詰所で聞くと言っているだろうが! これ以上騒ぐなら公務執行妨害も追加するぞ!」
「詰所になんて行きませんよ! 今、仲間にギルドの担当を呼びに行かせたところですわ! 正当なタグの持ち主を泥棒呼ばわりしたんや、ギルドの職員が来たら、その目の前で、もう一度同じことを言ってくださいよッ!!」
田中が強引に腕を振り払おうとした瞬間、ベテランの衛兵が、一切の感情を排した冷酷な手つきで槍を田中の首筋に突きつけた。金属の冷たさが、泥に汚れた皮膚に食い込む。
「……これ以上の抵抗は、容赦せん。……連れて行け。」
田中は無様に、されど周囲に聞こえるような確信犯的な声を上げながら、衛兵たちによって石畳を引きずられるようにして連行された。
ニコとミアが悲鳴のような声を上げながら後を追うが、大通りに面した、冷たく、威圧的な石造りの詰所の扉は、四人を飲み込むようにして重い音を立てて閉ざされた。
薄暗く、埃っぽい詰所の取調室。
田中は冷たい石の床に転がされ、二人の衛兵に見下ろされていた。
窓からは大通りの賑やかな陽光が細く差し込んでいるが、室内の空気は澱み、鉄の錆びたような匂いと古い汗の匂いが壁に染み付いている。
「さて。まずはそのタグの出所から吐いてもらおうか。どこの瓦礫の下から拾ってきた? 正直に言えば、不審者として数日拘留し、鞭打ちの刑だけで済ませてやるぞ。」
「……だから、それは私本人のもんですわ。ギルドに問い合わせれば、すぐに分かることでしょうが。台帳には私の名前も、パーティーの登録情報も、昨日までの私の活動記録もしっかり残っちょりますわ。」
衛兵が呆れたように、鼻を鳴らして嘲笑を浮かべた、その時だった。
詰所の重い扉が、不機嫌そうな乾いた音を立てて開け放たれた。
「……ギルドから確認に来た。その男が持っているタグの照合だ。」
入ってきたのは、ギルド職員のカスパルだった。
その後ろには、必死に走り回ったのか、肩で息をしているザックが立っている。
カスパルは、泥まみれでパンツ一丁の無様な格好をした田中を一瞥し、深く、深く、心の底から嫌気が差したというようにため息をついた。
「……。……。何故そんな裸同然なのかは知らんが、そいつは間違いなく鉄級の冒険者だ。名前は田中。登録番号は、そのタグの裏にある刻印と、俺が今持っているこの公式台帳の記録と完全に一致する。」
カスパルは衛兵に対し、卑屈さも、過度な不遜さも見せない、事務的な温度を崩さずに接した。懐から取り出した分厚い革の証票と、田中のタグの刻印を台帳の記録と突き合わせる。彼にとって、この作業は正義の行いでも慈悲でもなく、単に「ギルドの管理する資産(冒険者)」の身分を証明する、面倒な事務処理の一つに過ぎない。
「……確認は済んだ。身分が本物であると証明されたなら、ギルドの人間をいつまでもこんな場所に置いておく必要はないだろ。さっさと放り出せ。こいつのせいで、俺の今日の午後の事務作業が大幅に滞ってるんだよ。」
カスパルの、一切の情状を汲み取らない、冷徹なまでの事務的放言。
衛兵は毒気を抜かれたように、田中の腕を拘束していた力を抜いた。ギルドという組織の「証明」は、この都市において一定の強制力を持つ事実であることを、彼らは熟知していた。
「……。……チッ。身分が確定したなら、これ以上置いておくのも時間の無駄だ。おい、さっさと連れて行け。二度と、そんな汚らわしい姿で大通りを歩かせるなよ。次は事情に関わらず、即座に監獄へ送る。」
衛兵は田中を、まるでゴミを掃き出すかのように厄介払いしながら、部屋の出口へと突き出した。
田中はカスパルが放った、予備の不愛想な防汚用布を身体に巻き、無言で部屋を後にしようとした。
だが、その時。
詰所の奥、一段高い場所にある隊長席で、先ほどまで黙って書類に目を通していた初老の男が、不意に顔を上げた。
衛兵隊長。その、数多の犯罪者と対峙してきたであろう鋭い眼光が、泥まみれの田中の横顔を、逃さぬように射抜いた。
「……待て。貴様、見た事あるな。数年前にスラムに居てなかったか?」
詰所の空気が、一瞬で凍りついた。
数年前、転生直後の混乱の中で、指先の水という奇妙な能力で小銭を稼ぎ、その異様さゆえにセレスに連行されていった、あの日。
田中は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ゆっくりと振り返り、顔に卑屈な、商売人特有の愛想笑いを貼り付けた。
「……。……。へえ、何のことやら。……人違いやないですか、隊長さん? 私のような若造が、隊長さんのような偉いお方の記憶に残るはずがありゃせんですよ。」
「……。ふん、まあいい。さっさと行け。二度と目障りな格好で現れるな。」
隊長はそれ以上追求することなく、興味を失ったように、再び手元の書類へと目を落とした。
田中は深く一礼すると、今度こそ急ぎ足で詰所を出た。
外では、ニコ、ミア、そして安堵の表情を浮かべたザックが待っていた。
見た目は22歳。中身は51歳。
全てを焼かれた更地から、首に下げた鉄級のタグと、詰所での冷徹な事務的証明を経て、四人は再び自由を手に入れた。
「……行こう。次は、失った分を倍にして回収する番や。」
泥まみれの四人は、灰色の更地となった過去を背に、欲望と実利、そして次なる足がかりが渦巻くギルドの門へと、一歩を踏み出した。




