表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
110/136

第108話:泥濘の執行、あるいは人道(コンプライアンス)の壊死

「……あかん、あかんあかん!! 待て、待て待て! ストップ! 工事停止ストップ・ザ・ワークや!!」


タナカは、パンツ一丁の無様な姿で、半壊した壁の隙間から腕を突き出し、必死に叫んだ。

二日酔いの重い頭を揺らすのは、断続的な地響きと、逃げ惑う住人たちの悲鳴。視界の先では、土木用ゴーレムの巨大な「岩石の拳」が、ゆっくりと、けれど抗いようのない質量で、午前の低い陽光を遮りながら振り上げられていた。


その真下にあるのは、昨日、祝杯の後に枕元に置いてしまった革袋だった。

中には、昨夜の祝宴の残りのわずかな小銭。そして、ギルドで一度に換金すれば不審がられるため、少しずつ家に持ち帰って隠していた数点の『貴重な魔獣の素材』が入っている。

逃亡者という危うい身分のタナカにとって、それは「表の預金」を動かせなくなった時のための、命の次に大事な、帳簿外の予備資産バックアップだった。


「……タナカ、危ない! 戻って!!」


ニコが叫び、田中の泥まみれの腰布を掴んで引き戻そうとする。


「離せニコ! あれを……あの『大事な家財』を回収せんと、俺たちの『明日の希望』が……ッ!」

「落ち着いてタナカ! ゴーレムが建物を押し潰したって、中にある袋くらいなら、後で瓦礫を掘り返して拾えばいいでしょ!? 今は逃げるのが先よ!」


ニコの必死な言葉に、タナカは一瞬、足を止めた。

……確かにそうだ。ここで「資金」だの「資産」だのと叫び立てれば、周囲を監視している役人や騎士に、その異質さを悟られる。

建物が崩壊した後に、夜陰に乗じて回収に来れば、まだ再建の目は残る。


(……せや。あの中に何が入ってるか、奴らに悟られるわけにはいかん。……ニコの言う通り、今は引いて、後で『債権回収』に来ればええ……!)


タナカがそう自分に言い聞かせ、ニコの手を借りて、崩れゆく壁の陰へと後退した、その時だった。


「……第一次粉砕、完了。……第二次、清掃工程クリーンアップを開始せよ。」


拡声魔法による役人の、あまりに事務的な声がスラムの空気を震わせた。


「……え? 清掃……?」


田中の視線の先で、ゴーレムの背後に控えていた魔導師たちが一斉に杖を掲げた。

直後、局所的な暴風が、今まさに崩落したばかりのタナカの家を、そしてその下にある「すべて」を包み込んだ。


風魔法による人工的なサイクロン。

それは瓦礫を猛烈な速度で巻き上げ、木材も、石材も、鳴り止まない轟音の中で激突させ、さらに細かく、粉々に粉砕していく。

タナカが隠していた素材——その硬質な牙や鱗すらも、魔法の旋回する暴力の前では、ただの『微細な破片』へと成り果てていく。


「……火魔法、照射。一気に焼き尽くせ。」


さらに、サイクロンの中心に猛烈な熱風が注ぎ込まれた。

酸素を奪い、空間そのものを焦がすような熱波。粉砕された塵すらも、一気に焼き尽くされる。黒い煙すら上げさせない、魔導回路による完璧な燃焼。

タナカが「生命線」として隠し持っていた素材も、その価値を証明する形跡さえ残さず、すべてが物理的な『無』へと還元され、熱風に消えていく。


「……仕上げだ。地盤を固定しろ。」


仕上げは、土魔法による整地だった。

焼却され、不純物の消えた灰と砂が、魔法の圧力によって地面に押し固められていく。

メキメキと地面が唸りを上げ、数分前までそこにあったはずの「生活の拠点」は、何一つ凹凸のない、冷徹なまでに滑らかな『更地』へと変貌を遂げた。


「……。……。……う、嘘やろ。……拾うどころか、塵一つ残ってへんやないか……。」


タナカは、泥水の中に膝をついた。

指の隙間からこぼれ落ちるのは、希望ではなく、ただの熱を持った泥と灰。


「やめろぉぉ! どいてくれ!!」


一人の住人がゴーレムの足元に縋り付いたが、控えていた騎士がその脇腹を無造作に蹴り飛ばした。

「ぐえっ」という悲鳴とともに男は泥の中に転がされるが、騎士たちは一切の関心を示さない。

そこには、人間を人間として扱わない、徹底した排除のシステムだけがあった。


(……あかん。これ、完全なる、コンプライアンスの死滅した『暗黒の再開発』や……。)


タナカは泥だらけの拳を握りしめた。

命も、資産も、昨日までの生活の形跡すらも、これほどまでにシステマチックに「デリート」される現場は初めてだった。


「……タナカ、立って。……ごめんなさい、あんな工程があるなんて、思わなかったわ。」


ニコの声は震えていた。だが、背後から冷徹な声が響いた。


「……おい。いつまでそうやって、泥に膝ついてんだよ。」


ザックだった。

「家は消えた。素材も灰になった。拾えるもんは、塵一つ残ってねえ。……で、これからどうすんだよ。あの中に、今日食うパンの金すら残ってなかったんだろ。」


絶望に浸る時間すら、コストの無駄だと言わんばかりの合理性。

続いて、ミアがタナカのパンツ一丁の姿を一瞥し、静かに口を開いた。


「……宿も、着替えも、もうない。このままここで、次の『排除』を待つの?」


二人の視線がタナカの背中に突き刺さる。

……せや。まだ朝や。

店が開く時間や。泣いて穴に逃げ込んでる暇なんて、一秒もない。


タナカは、ゆっくりと泥水を払い、立ち上がった。

首元にぶら下がる銀色のタグ。そして、中身が空っぽになった、泥だらけの鞄。

物理的な資産はゼロ。それどころか、宿無しの一文無し。


だが、タナカの脳内では、すでに「次の商談」の算段が始まっていた。

……キャッシュがなけりゃ、信用クレジットで動くしかない。

このパンツ一丁の無様な姿すら、今の俺にとっては「緊急事態の被害者」という最強の営業ツールや。


「……ニコ、ザック、ミア。汚いツラ拭け。営業回りや。」


タナカは短く告げると、一度も振り返ることなく、泥濘の中を歩き始めた。


「……どこへ行くの?」


ニコの問いに、タナカは前だけを見据えて答えた。


「決まっとるやろ。ギルドや。……この『何一つなくなった俺』に、どんだけの時価がつくか……。王都の連中に、たっぷり見積もらせてもらうさかいな。」


パンツ一丁。薄汚れた鞄。

けれど、その背中からは「被災者」の湿っぽさは消えていた。

四人は、灰色の埃が舞う「綺麗な更地」に背を向け、活気と欲望の渦巻くギルドの門へと、泥を跳ね飛ばしながら進撃を開始した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ