第108話:泥濘の執行、あるいは人道(コンプライアンス)の壊死
「……あかん、あかんあかん!! 待て、待て待て! ストップ! 工事停止や!!」
タナカは、パンツ一丁の無様な姿で、半壊した壁の隙間から腕を突き出し、必死に叫んだ。
二日酔いの重い頭を揺らすのは、断続的な地響きと、逃げ惑う住人たちの悲鳴。視界の先では、土木用ゴーレムの巨大な「岩石の拳」が、ゆっくりと、けれど抗いようのない質量で、午前の低い陽光を遮りながら振り上げられていた。
その真下にあるのは、昨日、祝杯の後に枕元に置いてしまった革袋だった。
中には、昨夜の祝宴の残りのわずかな小銭。そして、ギルドで一度に換金すれば不審がられるため、少しずつ家に持ち帰って隠していた数点の『貴重な魔獣の素材』が入っている。
逃亡者という危うい身分のタナカにとって、それは「表の預金」を動かせなくなった時のための、命の次に大事な、帳簿外の予備資産だった。
「……タナカ、危ない! 戻って!!」
ニコが叫び、田中の泥まみれの腰布を掴んで引き戻そうとする。
「離せニコ! あれを……あの『大事な家財』を回収せんと、俺たちの『明日の希望』が……ッ!」
「落ち着いてタナカ! ゴーレムが建物を押し潰したって、中にある袋くらいなら、後で瓦礫を掘り返して拾えばいいでしょ!? 今は逃げるのが先よ!」
ニコの必死な言葉に、タナカは一瞬、足を止めた。
……確かにそうだ。ここで「資金」だの「資産」だのと叫び立てれば、周囲を監視している役人や騎士に、その異質さを悟られる。
建物が崩壊した後に、夜陰に乗じて回収に来れば、まだ再建の目は残る。
(……せや。あの中に何が入ってるか、奴らに悟られるわけにはいかん。……ニコの言う通り、今は引いて、後で『債権回収』に来ればええ……!)
タナカがそう自分に言い聞かせ、ニコの手を借りて、崩れゆく壁の陰へと後退した、その時だった。
「……第一次粉砕、完了。……第二次、清掃工程を開始せよ。」
拡声魔法による役人の、あまりに事務的な声がスラムの空気を震わせた。
「……え? 清掃……?」
田中の視線の先で、ゴーレムの背後に控えていた魔導師たちが一斉に杖を掲げた。
直後、局所的な暴風が、今まさに崩落したばかりのタナカの家を、そしてその下にある「すべて」を包み込んだ。
風魔法による人工的なサイクロン。
それは瓦礫を猛烈な速度で巻き上げ、木材も、石材も、鳴り止まない轟音の中で激突させ、さらに細かく、粉々に粉砕していく。
タナカが隠していた素材——その硬質な牙や鱗すらも、魔法の旋回する暴力の前では、ただの『微細な破片』へと成り果てていく。
「……火魔法、照射。一気に焼き尽くせ。」
さらに、サイクロンの中心に猛烈な熱風が注ぎ込まれた。
酸素を奪い、空間そのものを焦がすような熱波。粉砕された塵すらも、一気に焼き尽くされる。黒い煙すら上げさせない、魔導回路による完璧な燃焼。
タナカが「生命線」として隠し持っていた素材も、その価値を証明する形跡さえ残さず、すべてが物理的な『無』へと還元され、熱風に消えていく。
「……仕上げだ。地盤を固定しろ。」
仕上げは、土魔法による整地だった。
焼却され、不純物の消えた灰と砂が、魔法の圧力によって地面に押し固められていく。
メキメキと地面が唸りを上げ、数分前までそこにあったはずの「生活の拠点」は、何一つ凹凸のない、冷徹なまでに滑らかな『更地』へと変貌を遂げた。
「……。……。……う、嘘やろ。……拾うどころか、塵一つ残ってへんやないか……。」
タナカは、泥水の中に膝をついた。
指の隙間からこぼれ落ちるのは、希望ではなく、ただの熱を持った泥と灰。
「やめろぉぉ! どいてくれ!!」
一人の住人がゴーレムの足元に縋り付いたが、控えていた騎士がその脇腹を無造作に蹴り飛ばした。
「ぐえっ」という悲鳴とともに男は泥の中に転がされるが、騎士たちは一切の関心を示さない。
そこには、人間を人間として扱わない、徹底した排除のシステムだけがあった。
(……あかん。これ、完全なる、コンプライアンスの死滅した『暗黒の再開発』や……。)
タナカは泥だらけの拳を握りしめた。
命も、資産も、昨日までの生活の形跡すらも、これほどまでにシステマチックに「デリート」される現場は初めてだった。
「……タナカ、立って。……ごめんなさい、あんな工程があるなんて、思わなかったわ。」
ニコの声は震えていた。だが、背後から冷徹な声が響いた。
「……おい。いつまでそうやって、泥に膝ついてんだよ。」
ザックだった。
「家は消えた。素材も灰になった。拾えるもんは、塵一つ残ってねえ。……で、これからどうすんだよ。あの中に、今日食うパンの金すら残ってなかったんだろ。」
絶望に浸る時間すら、コストの無駄だと言わんばかりの合理性。
続いて、ミアがタナカのパンツ一丁の姿を一瞥し、静かに口を開いた。
「……宿も、着替えも、もうない。このままここで、次の『排除』を待つの?」
二人の視線がタナカの背中に突き刺さる。
……せや。まだ朝や。
店が開く時間や。泣いて穴に逃げ込んでる暇なんて、一秒もない。
タナカは、ゆっくりと泥水を払い、立ち上がった。
首元にぶら下がる銀色のタグ。そして、中身が空っぽになった、泥だらけの鞄。
物理的な資産はゼロ。それどころか、宿無しの一文無し。
だが、タナカの脳内では、すでに「次の商談」の算段が始まっていた。
……キャッシュがなけりゃ、信用で動くしかない。
このパンツ一丁の無様な姿すら、今の俺にとっては「緊急事態の被害者」という最強の営業ツールや。
「……ニコ、ザック、ミア。汚いツラ拭け。営業回りや。」
タナカは短く告げると、一度も振り返ることなく、泥濘の中を歩き始めた。
「……どこへ行くの?」
ニコの問いに、タナカは前だけを見据えて答えた。
「決まっとるやろ。ギルドや。……この『何一つなくなった俺』に、どんだけの時価がつくか……。王都の連中に、たっぷり見積もらせてもらうさかいな。」
パンツ一丁。薄汚れた鞄。
けれど、その背中からは「被災者」の湿っぽさは消えていた。
四人は、灰色の埃が舞う「綺麗な更地」に背を向け、活気と欲望の渦巻くギルドの門へと、泥を跳ね飛ばしながら進撃を開始した。




