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柔よく剛虎を制す!~呪いの帯で虎の怪物になった元・柔道女子高生は妖を柔道技でねじ伏せる~   作者: 暁季
後半戦

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第十八話 少女と大妖と千年の決戦


業虎(蘭ちゃん)が……泣いてる……?」


 顔を上げた(つむぎ)が目にしたのは、世界を破壊し尽くす大妖──「業虎(ごうこ)」の巨大な横顔だった。


 その赤く輝く(まなこ)から大粒の水滴が、ボロボロと廃墟と化した市街地に降り注いでいた。


 ──まるで、何かにひどく苦しんでいるような、悲しみに耐えているような。


 破壊の快楽しか知らない筈の魔獣の眼光。

 その奥底で、たった一人、大切な友が必死に抗おうとしている……


 そう紬は解釈した。いや、そうであってくれと願っていた。


「んな……何言ってんの、紬……いくらなんでもそれは……あっ……」


 信じられないといった様子で、夢愛(ゆあ)が業虎へ目をやる。


 ……山で見たあの眼とは、違った。

 視線だけで心臓を抉り出してしまうような、あの冷たく禍々しい眼ではない。


 業虎の眼から伝わってくるのは、苦痛と深い悲しみだ。

 理屈ではない。夢愛の心が、魂がそうだと強く訴えかけてくる。


「な……なんでだろう……業虎(アイツ)の眼……悲しそう……なんでウチまで泣きそうになってんの……?」


 胸の奥がきゅうっと締め付けられ、視界がかすむ。


 目頭がじわりと熱くなるのを感じながら、夢愛は崩れゆくビルの上で立ち尽くしていた、その直後だった。


『グルルル……ガァァッ!!』


 業虎の巨大な赤い眼が、ビルの屋上にいる一同を明確な「標的」として捉えた。


 バチバチと紫色の稲妻が、業虎の口元に収束していく。

 周囲の温度が急上昇し、空気が焼き焦げる。


「なッ……! 伏せろォ!!」


 (れん)が声を張り上げアームバンドに収められた札に手伸ばした。


 しかし、脳内で猛烈な勢いで思考を駆け巡らせた漣は、残酷な事実を理解した。


 ──間に合わない。

 紬と夢愛を連れてこのビルから離脱する時間は、もう残されてはいない。


 そして、奴の規格外の一撃を真正面から受ければ、自分の術など紙切れ同然に消し飛ぶと。


 業虎の巨大な顎が開き、激しく輝く紫電が漣たちのいるビルの屋上めがけて今まさに放たれようとしていた。


 ここまでか。

 誰もが死を覚悟し、身をすくめて目を閉じた──



 その瞬間──



『ガ、グォォォォッ!?』


 業虎の巨体が、まるで「見えない鎖」に強烈に引かれたように不自然にガクンと仰け反った。


 放たれた紫電のブレスが、漣たちのいるビルの僅か数メートル横を突き抜け、すぐ隣のビルに着弾した。


 凄まじい轟音と爆風が吹き荒れ、爆ぜた大量の瓦礫が流星群のように降り注ぐ。


「「キャァァァァッ!!」」

「ハ……! 『跳刃鳥籠(ちょうじんとりかご)』ォッ!!」


 漣がすかさず三枚の札を掲げ、上空に毛壁と無数の羽根手裏剣を放つ。


 そして頭上に降り注ぐ瓦礫を鋭い羽根が切り裂き、毛壁が弾いていく。


 自動車ほどあった巨大な瓦礫が瞬く間に切り刻まれ、粉塵となって爆風と共に流れ去っていった。



 濛々(もうもう)と立ち込める土煙の中で、紬が恐る恐る目を開けた。


「……い、生きて……る……?」

 

「これは……奇跡なんかじゃねえ……」


 札を構えたままの漣が、信じられないものを見るような目で頭上の巨体を睨みつけた。


 紫電が放たれる直前の不自然な挙動。

 偶然や手元の狂いなどではない。

 業虎の首は、自ら標的を外すように明らかに「逆方向」へと捻じ曲げられていたのだ。


如何(いか)にも。あれは魔獣の意志ではない』


 白雨(はくう)が確信に満ちた声で呟く。


 それは、破壊の意志に対する明確な反逆。

 完全に呑み込まれた筈の蘭の魂が、深い闇の底で今なお必死に抗い、間一髪で攻撃の軌道を逸らしたという絶対の証明だった。


「蘭ちゃん……!!」


 紬が瓦礫の破片で傷つき頬を伝う血をぬぐう。

 その瞳には、恐怖を塗りつぶす程の強い光が宿っていた。


「やっぱり……蘭ちゃんは生きてる!業虎の中で、必死に私たちを助けようと闘ってるんだ!」

「だが、どうする!?」


 漣が土埃を払い、焦慮(しょうりょ)の色を見せながら顔を歪める。


 蘭が生きて抗っているのはわかった。

 しかし、技の軌道を逸らすのでやっとのはずだ。

 業虎の圧倒的な精神圧の前に、蘭の魂がいつ押し潰されてもおかしくはない。


 一秒でも早く助け出さなければならないが、今の漣にあの大妖の強靭な肉体を止めるだけの力は、ない。


 何か、外側から業虎の破壊衝動を一瞬でも止められるような方法はないのか──



 八方塞がりな状況に、漣と白雨が思案に暮れている、その時だった。


「……ねえ。業虎(アイツ)ってさ、ひょっとして鼻とかスゴイ利く感じ?」


 焦る漣と白雨の横で、夢愛が上着のポケットをごそごそと漁りながら、静かに口を開いた。


『おそらく、人間の何万倍もあるじゃろうが……小娘よ、それがどうし──』

「ジャン。ラッキーアイテム。ウチのお気に、プルダの香水。」


 夢愛が桃色のガラスの小瓶を取り出し、漣の目の前で振ってみせた。


「……ハァ? お前それ、あの『サトリ』に憑りつかれてたインチキ占い師が言ってたヤツだろ。こんな絶望的な状況で、まだあんなの信じてたのか?」


 漣が呆れたようにツッコミを入れる。


「うっさいな~インチキじゃないし! コレはウチらの最強の武器だよ。ウチがアイツの顔面に、コレぶちまけて来る」


「な、馬鹿! お前何言ってんだよ!?」

「漣の術でウチをアイツのトコまで飛ばして! 他に方法思いつかないでしょ!?」


「いくらなんでも危険すぎる! んな無謀な作戦、成功する訳ないだろ! 空中ではたき落とされるのがオチだ!」

「……かもね。でもさァ、蘭が泣いてるんだよ……? ウチらの町が壊れるのを見て、必死に抵抗してる……絶対ウチらが手を伸ばさないとダメっしょ!」


 漣の制止を夢愛が迷いのない表情で遮った。

 その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っている──


「夢愛ちゃん……!」


 紬が夢愛の覚悟に胸を打たれ、力強く頷いた。


 その真っ直ぐな二人の瞳を見て、漣は呆れたように、それでいてどこか頼もしげに小さく息を吐いた。


「……ハッ、お前ら狂ってるよ。ただの女子高生が、千年の大妖の顔面に喧嘩売るなんてな」


 漣は口の端を吊り上げ、乾いた笑みを浮かべた。


 背に腹は代えられない。そして、彼女たちの無謀な覚悟が、今の彼にはひどく眩しく見えた。


「だが、嫌いじゃないぜ。待ってな、とっておきのを出してやるよ」


 漣はそういうとアームバンドから札を抜き取り、ビルの屋上の貯水タンクへ投げつけた。


「『巳ノ絡縛(みのらくばく)』」


 札がタンクに張り付くと、大量の白蛇が飛び出し、互いの体を編み込むように絡めていく。


 それは、まるで綱のようにタンクに縛り付けられ、もう一方は夢愛の腰にしっかりと巻きついた。


「げぇぇ~っ! 蛇じゃんキモっ! もう少しマシなのなかったワケぇ……?」


 夢愛は鳥肌をたて、青ざめた表情で腰に巻き付いた白蛇の綱を凝視した。


「贅沢言うな! 覚悟決めたんだろ? これがお前を守る命綱だ」

「そうだけどさァ……うぇっ、しゃーないか……サンキュー漣!」


 夢愛がわなわなと震えていた手を握りしめ、親指を立てる。


 漣はさらに札を手に取り、まるでトランポリンのように足元に分厚い毛の壁、弾性結界(だんせいけっかい)を展開した。


「……準備できたぜ。俺特製、地獄の横バンジーだ。これで業虎(アイツ)の元へひとっ飛びだ。俺が全力でアシストする。顔面に一発くれてやったら、すぐに引き戻すからな」

「うん……わかった!」


「夢愛ちゃん……ごめんね、夢愛ちゃん一人にこんな危険な事させちゃって……グスッ……」


 紬が目に涙を溜めながら、沈んだ表情でそう言った。


「紬……アンタは(ぬえ)との闘いの時、ウチを守ってくれたじゃん! ケガだって、完全に治ったワケじゃないんだしさ。今度はウチがみんなの為に、蘭の為に身体張らせてもらうよっ」


 夢愛はニカッと笑ってみせ、紬に向かってピースサインをした。


『力による制圧が不可能な今、わしらにできる事は、少しでも業虎の隙を作り、小娘の魂を呼び覚ます事だけじゃ……! 無謀な賭けじゃ……しかし、そんな一縷(いちる)の望みに賭けるより他ない……! 頼んだぞ……小娘よ!』


「……はい! やってみせますっ!」


 白雨の振り絞るような言葉を背中で受け、夢愛が深呼吸をし、スッと姿勢を落とす。

 そして大きく地面を蹴り上げ、毛壁のトランポリンに向かって勢いよく飛び乗った。


 ボインッ!!


 瓦礫の粉塵と火災の煙が空を覆いつくし、色を失った世界の中で一人の少女が砲弾のように空中へと射出される。


 目指すは数十メートル先で家屋をなぎ倒しながらゆっくりと迫りくる業虎の、巨大な顔面。


「うわぁぁあああぁぁぁ!!」


 強風に煽られながら、夢愛が香水の瓶を両手で力強く握りしめる。


『──!? グルルルッ!?』


 業虎が、一直線に向かってくる羽虫(夢愛)に気付き、鋭い鉤爪を立てて剛腕を振り回した。


 業虎の迎撃が直撃するその瞬間──


 攻撃の軌道上に分厚い毛壁が出現し、夢愛の身体を受け止め空中で真上に跳ね上がった。


 剛腕が空を切り、凄まじい斬撃が後方の瓦礫の山へと突き進み、爆散した。


『ガアァッ!?』


 攻撃を空ぶった業虎が、苛立ったように咆哮を上げながら頭上から降ってくる夢愛の姿を捉え、巨大な顎を開いて嚙み砕こうと待ち伏せる。


 ギラリと鋭い牙が並ぶ、暗闇のような口内が迫る──


 全身を恐怖感が突き抜け、一瞬身体がすくむが、夢愛は決して目を逸らさなかった。


「ウチの親友の身体で……好き勝手してんじゃねぇぇぇぇ!!」


 夢愛が握りしめていた香水の蓋を開け、大きく振りかぶる。


「コイツで目ぇ覚ませぇぇ! 蘭ーッ!!」


 パシャァァァッ!


 香水の瓶が、業虎の鼻先目掛けて叩きつけられた。

 ガラスがバラバラに砕け、業虎の巨大な顔面へ飛散する桃色の液体。


 アルコールの揮発成分と人工的なムスクの香りが弾け飛び、人間の何万倍も敏感な大妖の嗅覚に、それはダイレクトに襲いかかった。


『ガァルァァァアアァァ!?!?』


 業虎が、顔をグシャグシャに歪めて悲鳴を上げた。

 無敵かに思えた巨体が初めてバランスを崩し、刺激に耐えかねて動きを止める。


『よくやったぞ小娘!!』

「引き戻すぞッ!!」


 漣が術を唱え、白蛇の綱を一気に収束する。

 夢愛の身体が巨大な顎に噛み砕かれる数センチ手前で、バネのようにビルの屋上へと引き戻されていく。


「今だッ!! 叫べェェェッ!!」


 漣の合図と共に、屋上に転がり込んだ夢愛と縁に身を乗り出した紬が、深く息を吸い込み喉が張り裂けんばかりの声を上げた。


「目を覚まして、蘭ちゃーーーん!!」

「起きろーーッ虎井 蘭ーーッ!!」


 少女たちの必死の叫び。

 業虎の破壊が止まった、その一瞬の空白。


 二人の声は、認識阻害の壁を突き抜け、業虎の分厚い肉体の装甲をすり抜け、そして──

 

 深い深い闇の底に沈んでいた「彼女」の魂へと、確かに届いた。



 ◇ ◇ ◇



 ……ピチョン。


 冷たい水滴が跳ねる音がした。


 どこまでも続く、暗闇の空間。


 足元はまるで水面のように波打ち、そこに立つ者の姿を鏡のようにぼんやりと映し出している。



「……ッ! ……ハァ……ハァ……!」


 その暗闇の中心で、私は息を切らして膝をついていた。


 ここは現実ではない。私の精神の奥底。己の肉体の主導権を懸けた、闘いの場だ。


 ふと、足元の水面に視線を落とす。

 

 そこに映っているのは半獣の化け物ではない。

 ボロボロになった柔道着を身に纏った、ただの人間である私、虎井 蘭の姿だった。


 対峙するのは、黒色の禍々しいオーラで構成された二足歩行の筋骨隆々の虎の怪物、業虎。


 現実世界程ではないが、それでも四メートルはある。私よりも二回り以上も巨大な異形。

 

 私から肉体の主導権を奪い取った張本人──業虎の精神が、マグマのような紅い眼で私を睨みつけていた。


「くそっ……!」


 もう何発攻撃をもらっただろうか。

 視界がかすみ、業虎の黒い肉体の輪郭が曖昧になる。


 ──しかし、ここで諦めたらすべてが終わる。

 ふらつく足を庇いながら、私はゆっくりと身体を起こし、拳を固めて身構えた。


『グルルル……ガァッ!!』


 業虎が黒い水面を蹴り上げ、波紋を広げながらこちらに迫ってくる。


 次の一撃をもらえば、もう立ち上がれない。

 私の全身の細胞が警報を鳴らす。


 ──掴めるか? 避けるべきか? 避けられるのか?


 高速で思考を巡らせるその刹那(せつな)、暗闇の天井から聞きなれた愛おしい声が響き渡った。


「目を覚まして、蘭ちゃーーーん!!」

「起きろーーッ虎井 蘭ーーッ!!」


「!!」


 声の主は、紬と夢愛だった。

 方法はわからないが、二人の親友の叫び声がどこまでも広がる闇の世界にまでハッキリと、私の心の奥まで伝わっていった。


 不思議な感覚だった。

 あれほど重かった身体が、まるで羽根のように軽い。

 

 途切れかけていた気力が、湯水の如く湧き上がってくる。

 二人の声が、私という人間の「魂」を強く、太く補強していくのがわかった。


『グ、ガァァ……!?』


 反対に、目の前の業虎の精神体はその声を聴いた途端に足を止め、ひどく苦し気な唸り声を上げた。


 奴を形作っていた禍々しい黒いオーラが、まるで蒸発を始めたかのようにジュゥゥと音を立て、萎縮していく。


 千年の大妖にとって、人間の絆やあたたかな感情は、己の破壊衝動を否定する猛毒のようなものなのだろう。


 この精神世界において、純粋な身体の大きさや筋力は意味を持たない。



 ここでは、力よりも――心の強い方が勝つ。


「心があたたかい……ありがとう……紬、夢愛……!」


 優しく、力強いエネルギーが広がり、全身を満たしていく。

 私は胸に手を当て、柔道着の襟をギュッと掴んだ。


「……今なら、負ける気がしない」


 親友たちの声による「強化」を受けた私と、毒のような感情に「弱体化」を受けた業虎。


 圧倒的だった力の差は今、完全に拮抗した。


 私は足元の水面を蹴り、真っ向から業虎の懐へと踏み込んだ。


 業虎が頭を振り払い、鋭い鉤爪を立てて私の接近に迎え撃つ。


 剛腕が放つ爪撃(そうげき)を柔道の体捌きで紙一重で躱し、黒いオーラで構成された奴の太い腕──「袖」をガッチリと掴み取る。


『ガァァァァッ!!』

「うぉぉぉぉ!!」


 三メートル超えの獣人と、ちっぽけな人間の少女。

 両者が踏み込んだ水面は、全く同じ規模の激しい波紋を巻き起こした。


 精神の奥底で、一歩も譲らぬ互角の削り合いが始まったのだった。



 ◇ ◇ ◇



「……業虎が……止まった……!」


 ビルの屋上で夢愛が目を見開いた。


 香水による奇襲と、それに続く二人の絶叫。

 その直後、町を蹂躙していた超巨大な業虎の動きが、嘘のようにピタリと停止したのだ。


『ガァッ、ギギギ……ァァァァッ!!』


 やがて業虎は、巨大な両腕で頭を強く抱え込み、天を仰いで苦悶(くもん)の絶叫を上げた。


 ズズゥンッ、ズズンッ……!


 山のような巨体が、まるで酔っぱらったかのように千鳥足で後退し、近くのビルにぶつかってもたれ掛かる。


 さらに異様だったのは、その体だ。


 業虎の赤黒い毛皮に覆われた肉体から、沸騰したやかんから噴き出すように高熱の白い蒸気が猛烈な勢いで立ち昇り始めたのだ。


「なに、あれ……蒸気みたいなものが……」


 紬が目を細め、業虎の異様な光景を見つめていた。


 業虎の巨体から立ち昇る白い蒸気。

 それは、内に秘めた莫大な妖気が、強烈な別の力と衝突し、摩擦を起こしている証拠だった。


 絶対的な千年の大妖の力に、明確な「ゆらぎ」が生じている。


「……ハッ。アイツ、あの化け物相手に一歩も引いちゃいねえのか」


 漣の口角が、不敵に吊り上がった。


 物理的な攻撃など一切通用しなかった怪物を止めたのは、たった二人の女子高生による、親友の呼びかけだったのだ。


「蘭……! ウチらの声、ちゃんと届いてるじゃん……!」


 夢愛が目の端を輝かせながら、蒸気を噴き上げ苦しむ業虎()を見つめる。


 絶望に染まり切っていた戦場に、初めて明確な「反撃の光」が差し込んだ瞬間だった。



 ◇ ◇ ◇



 果てのない暗闇の世界に、激しい波紋が巻き起こる。

 

 黒いオーラが形作る業虎の精神体と、私の一歩も譲らぬ命の削り合い。


 私は足元の水面を右脚で踏みしめ、掴んだ業虎の「袖」と「襟」に渾身の力を込めた。


 このまま一気に背負い投げる。

 力が互角の今なら、いける筈だ。


「おらぁぁぁッ!!」



 ──持ち上がらない。

 業虎の巨体が、岩のようにビクともしないのだ。


(くそッ、重い……!)


 焦りが生んだ致命的なミス。

 

 相手の力を利用するのではなく、自身の力だけで強引に投げようとする(りき)み。

 それは柔道の理合(りあい)とかけ離れた、ただの力任せな技だった。



 私の技が完全に死に、無防備な隙が生まれる。


『グルァァッ!!』


 業虎がその一瞬の隙を見逃す筈がなかった。

 私の投げを(こら)えた姿勢から強引に体を捻り、私の胸ぐらめがけて巨大な裏拳を叩き込む。


「ガハッ……!!」


 内臓が破裂するかのような、猛烈な衝撃。


 私の身体は黒い水面を激しくバウンドしながら吹き飛ばされ、暗黒の空間の奥深くへと沈み込んだ。


 精神の奥底で受けたその強烈なダメージは、現実世界の肉体にも明確に変化として現れた。



 ◇ ◇ ◇



『グルルルォォォォッッ!!』


 頭を抱えてもがき苦しんでいた業虎が、突如として天を仰ぎ、勝利を確信したかのような咆哮を上げた。


 その巨体から噴き出していた白い蒸気が、ピタリと止む。


 「ああっ! 業虎がまた動き出した!」


 現実世界。

 ビルの屋上で戦況を見守っていた夢愛が絶望の声を上げた。


 ゆっくりと首を起こした業虎の紅い眼に、冷酷な破壊の意志が灯る。


『いかん……! 奴が再び主導権を握り始めておる!』


 白雨の焦燥(しょうそう)に満ちた言葉を裏付けるように、業虎が市街地のビル群に向けて、再び破壊の剛腕を振り上げようと巨大な右脚を力強く踏み込んだ。



 その時、業虎の足元の動きを凝視していた紬が、ハッと息を呑んだ。


 恐怖を押し殺し、誰よりも蘭の動きを観察し続けていた彼女の「目」が、巨大な異形の足運びの中に、見慣れた違和感を見つけ出したのだ。


葛葉(くずは)くん! あいつの右脚を狙って!」

藤宮(ふじみや)!?」


 突然の紬の指示に、漣が目を丸くする。


「そっくりだったの! 今のあいつの動き! 蘭ちゃんは体勢を崩した時、無意識に右膝に重心をかけて踏ん張るクセがあるの!」

「蘭のクセだと……? ハッ、上等だ!」


 紬の的確な指示に、漣が即座にアームバンドから札を抜き取り霊力を込める。


「頼む……アイツ()の元へ届いてくれ……!!」


 一直線に放たれた、極限までに霊力を圧縮された無数の羽根手裏剣。


 それは漣の思いを乗せて空を切り裂き、次の一撃を繰り出そうと踏み込んだ右膝の裏側──紬が指摘した急所へと、ピンポイントに突き刺さった。


『ガ、グガッ!?』


 ダメージ自体は微々たるものだった。しかし、全体重が乗っていた「軸足の急所」を撃ち抜かれた事で、ビルよりも巨大な業虎の右膝が、ガクンと大きく崩れた。


 漣の正確無比な羽根の斬撃は、肉体の主導権を握っている業虎の精神体にも、強烈なノイズとなって干渉した。



 ◇ ◇ ◇



 精神世界。

 

 隙を突かれ吹き飛ばされた私が顔を上げると、追撃の為に強烈な踏み込みを見せた業虎の姿があった。


 ──間に合わない。やられる。


 そう覚悟した瞬間だった。



『ガ、ガァッ……!?』


 突如、業虎の右膝がガクンと折れ曲がり、大きく前のめりに崩れた。

 しかも、その膝には白く輝く刃のようなものが突き刺さっている。


「漣……!?」


 私は転がるようにその場を離脱し、間一髪で業虎の追撃を免れた。


 そのままの勢いで私は立ち上がり、乱れた息を整えながら、膝をつく巨大な異形を凝視する。


 間違いない。今のは漣の術だ。


 ──でも、私には痛みがない。



 ……そうか。今この肉体を動かしているのは私じゃなくてアイツだから。

 表に出て暴れているアイツにだけ、外からの攻撃がそのまま響いているんだ。

 

 みんなが私の為に命がけで闘ってくれている。

 深い闇の中の私を見つけ出し、外の世界から助けてくれている。


 離れていても、感じる。

 仲間たちの信じる思いが。千年の大妖に立ち向かう覚悟の光が。


 私の身体の震えは、もう完全に止まっていた。


「……アンタは強いよ、業虎」


 私は柔道着の帯をきつく締め直し、真っ直ぐに業虎の紅い眼を見つめ返した。


「純粋な力や破壊の執念なら、私なんかじゃ到底(かな)わない。もし私が一人だったら、とっくにアンタの闇に呑み込まれていただろうね」


 膝に突き刺さった刃が消え、業虎が低い唸り声を上げながら立ち上がる。


「でもね、私は一人じゃない。仲間がいる。背中を押してくれる親友がいる。……絶対に守りたい世界がある」


 そして、私は強く拳を握り込んだ。


「アンタは私の身体を奪って、大切な仲間や町を壊そうとした。……それだけは、絶対に許さない。私の『柔道』の全てを懸けて、アンタに勝ってみせる」


 私の心は、かつてないほどに澄み切っていた。

 

 誰かに助けられるだけの存在じゃない。

 私は、柔道家だ。



「今! ここでお前を投げる!!」


『グルァァアアァァッッ!!』


 私の言葉が、千年の大妖の逆鱗に触れた。


 業虎が全身のオーラを爆発させ、暗黒の精神世界を揺るがす程の咆哮と共に、すべてを粉砕する勢いで私に向かって突進してくる。


 凄まじい質量とスピード。

 

 だが、今の私に恐怖はない。

 力を力でねじ伏せようとするから失敗するのだ。



 ──柔よく剛を制す。



 私は静かに目を閉じ、すべてを失ったあの日を思い出す。


 そして、目を開くと同時に、突進してくる業虎の懐へと自ら吸い込まれるように一歩踏み込んだ。


 右脚で業虎の踏み込みの軌道を誘い、両手で奴のオーラを深く握り込む。


 抵抗はしない。奴の猛烈な突進のエネルギーを一切殺さずに、私の身体を支点にして軌道の先の「虚空(こくう)」へと流し込む。


 

 心・技・体の全てが完璧に嚙み合った、究極のタイミング。



「はぁぁぁぁッ!!」


 私が両手を振りぬいた瞬間。


 三メートルを超える業虎の巨体が、信じられない程の軽さで宙を舞った。


 

 ──決まった。



 相手の踏み込む力を利用し、回し投げる幻の技──「空気投げ」。


 完璧に決まったその技の威力は、業虎の精神を完全にねじ伏せ、現実の巨体を宙に浮き上がらせる程の絶対的な力を持っていた。



 ◇ ◇ ◇


 現実世界。


 右膝を崩した直後、怒り狂ったように突進しようとした業虎の巨大な肉体が、突如としてフワリと浮き上がった。


「な……!?」


 漣たちが突然の出来事に絶句する。


 誰も触れていない。しかし、ビルよりも巨大な業虎の肉体が、まるで透明な巨人に投げ飛ばされるかのように、見事な弧を描いて頭から地面へと真っ逆さまに落下し始めたのだ。


『いかん! このまま奴が落ちれば、町が丸ごと吹き飛ぶぞ!!』


 漣が血相を変え、アームバンドからありったけの札を掴み取った。


「させねえ……! 俺たちの町は、俺たちが守る!! 最大出力……!!」


 漣が札を握りしめ、両手を天に掲げて全身の霊力を札に注ぎ込む。


「『毛壁・大重畳もうへき・だいちょうじょう』ォォッッ!!」


 業虎が落下する市街地の地面一面に、幾重(いくえ)にも重なった極厚の毛壁が展開される。


 それはさながら、白陽町を覆う巨大な「一枚の畳」だった。



ズドゴォォォォォォォォンッッ!!



 精神世界の「空気投げ」と、現実世界の巨大な「畳」。


 二つの世界が完全にリンクし、千年の厄災をねじ伏せる完璧な一本が、大音響と共に白陽町の空に響き渡った。

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