第十七話 吸収と再生と業虎の復活
東の空が白くなり始め、長く冷たい夜が終わりを迎えようとしている。
森を吹き抜ける風が、焦げた木々の匂いと土煙を優しく流していった。
「れん……漣ッ! 無事だったッ!?」
漣の後方から、鈴のような高い声が近付いてきた。
白雨と、紬の肩を担ぎながら歩く夢愛だった。
紬は青ざめた表情をしながらも、かろうじて肩を借りながら足を進める事が出来ていた。
「ああ……なんとかな……」
漣が両手をついてゆっくりと傷だらけの体を起こす。
『小僧よ、鵺を倒したのじゃな……よくぞやってくれた……!』
白雨が紬の肩の上で体の水色の紋様を輝かせ、癒しの術を施しながら、漣に語り掛けた。
「いえ……やったのは、蘭です……俺だけの力では、アイツに勝てませんでした……」
漣は悔しそうにそう答えたが、どこか達成感を感じさせるような穏やかな表情をしていた。
『そうじゃったか……ともあれ、おぬしたちはよく闘ってくれた。では、最後の楔の封印に向かおうぞ……』
漣たちは満身創痍の身体を引きずりながら、鵺が地面に激突した巨大なクレーターへと歩き出した。
クレーターの中心に残された鵺の残骸と私。
完全に沈黙し、ボロボロに崩れ去った鵺の残骸の中から、鈍い光を放つ琥珀色の「石」がコロンと転がり落ちた。
それは業虎の牙が眠る最後の楔──三日月形の勾玉だった。
「ハァ……ハァ……終わっ、た……」
私は全身の筋肉の強張りを解き、ドスンとその場に座り込んだ。
焼け焦げ、爛れた肉体は、白い煙を上げながらゆっくりと元の艶を取り戻しつつあった。
心と身体を蝕んでいたどす黒いオーラはすっかり鳴りを潜め、私は不思議なほど穏やかな気持ちになっていた。
これで終わった。最後の楔を討伐し、業虎の完全復活を阻止したのだ。
あとは、私の中の業虎を封印するだけだ。
鵺との死闘で一時はどうなるかと思ったが、私は暴走を紙一重で抑える事が出来た。
幾つもの命を懸けた闘いを乗り越え、成長した私と漣なら、きっとやれる。
これでようやく、平和な日常に帰れる。
「……よくやったな、蘭」
クレーターの縁から、全身を土と血に塗れた漣が、足を引きずりながらゆっくりと近づいてきた。
その手には、霊力を帯びた封印の札が握られている。
「その勾玉を浄化して封印すれば、楔の連鎖は完全に断たれる。……長かったな」
漣が安堵の息を吐きながら、地面に転がる勾玉に向けて札をかざした。
──その時だった。
ピクリ、と。地面に落ちていた琥珀色の勾玉が、まるで意志を持ったかのように宙に浮かび上がった。
「なッ……!? おい待てッ!」
漣が血相を変えて札を突き出そうとするよりも早く──
勾玉は弾丸のような速さで宙を駆け、無防備に座り込んでいた私の胸のど真ん中、心臓へとまっすぐに吸い込まれていった。
ドクンッ!
全身の血液が凍り付くような衝撃が走る。
痛いのではない。猛烈な胸騒ぎのようなおぞましい感覚が押し寄せる。
私の中で、パズルの最後のピースがはまってしまったのだ。
「ア……ァァ……」
その瞬間、私の脳内に最悪の真実が流れ込んできた。
脚、腕、眼、尾、毛皮、牙──これまで私たちが命がけで倒し、漣が封印してきたはずの楔たち。
騙されていたのだ。
完全に封印などされていなかった。
漣が妖を封印するその瞬間――ほんの僅かの隙を突き、私の中の業虎が「自身のパーツの欠片」だけを、私の身体を通して密かに吸収し、隠し持っていたのだ。
集められていたのは、元の身体のほんの一部。ごく小さな細胞の欠片に過ぎない。
しかし、奴にはそれさえあれば充分だったのだ。
先程の鵺との闘いで、私の命を強引に繋ぎ止めたあの「異常な再生能力」。
それが今度は、私という人間の器を喰い破り、体内に揃った「パーツの欠片」を核として、欠損した業虎の肉体を完全な形へと「復元」させるために暴走を始めた。
「蘭!! 蘭ッ!!」
漣の必死の叫びは私の耳には届いていなかった。
まるで一人深い海の底にいるような、全てが深い──闇。
私の細胞のひとつひとつが猛烈な勢いで書き換えられ、別の「何か」に変わっていく。
指先から骨の髄まで、圧倒的な「千年の妖気」が満たしていく。
意識が沈んでいく。深い闇の底まで。
(ああ、ダメだ……みんな、逃げ──)
私の人間としての意識が、ここで途絶えた──
◇ ◇ ◇
「嘘……蘭ちゃん……!?」
「何……? 鵺倒して業虎の復活は防いだんじゃないの……?」
一同は目の前の現実を理解出来ず、絶望に顔を歪ませるしかなかった。
クレーターの中心で座り込んでいた半獣の少女の身体が、悍ましい音を立てて膨張を始めた。
ゴボォッ!と蘭の背中や腕から、赤黒い巨大な肉の塊がマグマのように溢れ出す。
それは業虎の再生能力の暴走だった。
僅かに吸収していた肉体の一部を起点に、異常な早さで骨が形成され、神経が走り、筋肉が覆い尽くす。
蘭のものだった肉体が歪に膨れ上がり、その質量を増していく。
やがてそれは、天高く見上げる程の高層ビルに匹敵する超巨大なサイズに達した。
朝日に照らされて浮かび上がったそのシルエットは、もはや「虎井 蘭」の面影など微塵も残していなかった。
山のような異常な巨躯、燃える炎のように揺らめく赤黒い獣毛、鋼のように強固で鋭い鉤爪と牙。
そして天を突くほど禍々しい気を放つ、真の破壊の権化。
千年の時を経て、世界を破壊し尽くす大妖「業虎」が己の肉体を完全に取り戻し、現世に復活を果たしたのだ。
『――グルォォォォォォォオオッッ!!!!』
業虎が天を仰ぎ、世界を揺るがす程の咆哮を上げた。
ただ声を発しただけ。それだけで猛烈な爆風が巻き起こり、漣たちの身体が木の葉のように一瞬で吹き飛んだ。
「「キャァァァァッ!!」」
「ぐぉぁぁッ!! ……『未ノ毛壁』ィィッ!!」
漣が宙を回りながら決死の思いで札を掲げ、散り散りになって吹き飛んだ紬と夢愛を毛の壁で絡めとる。
間一髪、一同は大木への直撃を免れ、ふわりと地面に転がり落ちた。
「……グハッ……!」
血を吐きながら顔を上げた漣の視線の先で、業虎がゆっくりと首を回す。
燃えるような巨大な眼が、地面を這いつくばる漣、そして紬たちを品定めするかのように俯瞰する。
──殺される。
この場にいた誰もが本能でそう確信した。
絶望と恐怖で身体が動かない。ただ、震えたまま巨大な破壊神を見上げる事しか出来なかった。
しかし。
業虎はその巨大な視線を、すぐに虫ケラたちから外した。
千年ぶりの復活。この満ち溢れる破壊の衝動を満たすには、目の前で転がる死にかけの命など、あまりにもちっぽけで無価値だった。
ドスゥン……ドスゥン……
業虎が振り返り、山のような巨体を一歩、一歩と踏み出した。
地面が陥没し、山に地震のような衝撃が響き渡る。
業虎が向かう先。それは山を降りた先にある白陽町の市街地だった。
世界の危機など知る由もない人々が、いつも通りの朝を迎えようとしている。
「ま……待て! ……ちくしょう……」
漣の力無き叫び声も虚しく、業虎は破壊と殺戮の歩みを止めることはなかった。
「……ぁぁ……ぁ……」
紬と夢愛が毛壁の上で仰向けになったまま、口をガタガタと震わせて放心していた。
呼吸を忘れる程の圧倒的な業虎の妖気。
心臓を鷲掴みにされるような感覚が、紬と夢愛を今も尚縛り付けている。
『な……なんという事じゃ……わしらは業虎の復活を止めるどころか、その手助けをしていたというのか……!』
白雨は鼻にシワを寄せ、目を細めた。
『小娘よ……立てるか……? すまぬがおぬしへの術はここまでじゃ。小僧をなんとかせねばなるまい……』
「……はっ……! ……はい……」
白雨の言葉に紬がハッと我に返る。
紬が癒しの術への感謝の言葉を紡ぐよりも早く、白雨はぴょんと紬の肩を降り、地面を這いつくばる漣の元へと駆け出した。
『小僧……! しっかりするのじゃ! 今その傷を癒してやるぞ……!』
白雨が顔を引き攣らせながら体の水色の紋様を輝かせ、漣の身体にそっと大きな九本の尾を乗せる。
あたたかい光が、漣の冷めた身体を少しずつ温めていく──
「……あ、ありがとうございます……しかし、業虎は完全に復活してしまいました……あんなのに……あんなのに俺たちはどうやって闘えばいいのですか……っ!」
『っ……それは……』
白雨は険しい表情で言葉を詰まらせた。
絶望的な沈黙が続く。
ズズゥゥン! と山を揺らす地鳴りが響く。
業虎が一歩踏み出す度に、絶望へのタイムリミットが迫っていく。
『……業虎を封じ込める可能性を秘めているのは、おぬしだけじゃ! 奴の気まぐれで回復の隙を得たのは不幸中の幸い……頼む、最後にもう一度だけ、わしと闘ってくれ……!』
「……答えになってませんよ……白雨様……」
白雨の悲痛な叫びに、漣は乱れた呼吸のまま、引き攣った笑顔で答えた。
漣が癒しの術を受けている間に、業虎は山を降り終え、市街地に向けて一直線に歩を進めていた。
あれほど巨大な異形がすぐそこまで迫っているにも関わらず、町からはサイレンの音一つ聞こえてこない。
山のように大きな影が、拳程の大きさにまで小さくなっている。
「……ありがとうございます、もう動けます。奴はもう町に――」
言葉を言い終えるよりも早く、漣が地面を蹴り上げた。
アームバンドから札を抜き取り飛び出そうとした漣の背中を、夢愛が必死に掴んで引き止めた。
「待って!ウチらも連れてってッ!」
「……鵺との闘いで、もうわかっただろ? 危険すぎる……諦めろ」
漣は振り返る事なく札を掲げようとした。それを夢愛が遮るように言い返した。
「わかった上でいってるの! てか、アンタが負けたらどの道世界は終わるんだから一緒だっての」
紬が両手を合わせて祈るように漣に訴えかけた。
「私たちの声はもう、蘭ちゃんには届かないかもしれない……だけど、蘭ちゃんを独りにさせたくない……葛葉くんも独りにさせたくない……!」
「死んでも構わない。アンタが負けても文句は言わない。ここまで一緒にやってきたじゃんウチら……アンタみたいなスゴい術は使えないけどさ、アンタの最期の闘い、見届けさせてよ」
二人の目は決意に満ち溢れ、水のように透き通っていた。
嫌でも実感させられる目前の死と絶望。そして肩にのしかかる孤独感が、漣に二人の願いに対する答えを導いていく。
「……ハッ、一瞬で負けちまうかもしれないぜ?あんな化け物相手で……」
「そんな弱気な発言、似合わないっつーの」
「……かもな。やるだけ、やってみようか。時間がねえ、俺に掴まれ」
漣はそういって微かに微笑むと、両腕をしっかりと掴む紬と夢愛の腕を抱えるように巻き込み、術を唱えた。
「急急如律令……『卯ノ跳躍』」
突風が巻き起こり、三人と一匹の身体が弾丸のように上空へと撃ち出される。
荒れ果てた森の木々を置き去りにして、朝日に照らされる白陽町の市街地へとひとっ飛びで突き進む。
しかし、上空から見下ろした町の光景は、既に地獄と化していた。
「ああっ、町がッ!!」
『なんという力じゃ……! まさに大妖……!』
紬と白雨が空中で絶望の声を上げる。
業虎が市街地のど真ん中をゆっくりと歩いていた。
山のような巨体が一度足を下すと、アスファルトが蜘蛛の巣状にひしゃげ、水道管が破裂し水柱が勢いよく上がる。
龍のように巨大な尾が振られるだけで、ビルや家屋がまるで積み木のように呆気なく崩れ去っていく。
「うわぁぁ地震だ!」
「みんな逃げろぉ!」
パニックに陥った町の人々の悲鳴が、上空にいる一同の耳にも微かに届く。
「なんで!? なんでみんなそっち行くの!? アイツの方に向かってるじゃん!!」
夢愛が逃げ惑う人々の異常さが信じられないように叫んだ。
そう、異常なのだ。
人々は「局地的な地震」や「原因不明の爆発」と思い込み、崩壊するビルから必死に逃げ惑っていた。
しかし、彼らの目に業虎の姿は「見えていなかった」。
そのため、あろうことか安全な場所から業虎が次に足を踏み下ろす巨大な足の真下へと、自ら飛び込んでしまうのだ。
「ハッ……『認識阻害』……!」
紬が青ざめた表情でその言葉を口にする。
「最悪だ……みんな奴の姿を認識できてねえ……だからどこに逃げればいいのかわからねえんだ……!」
「そんな……!」
誰も見えない。誰も防げない。まさに「透明な災害」。
町の人々が崩壊するビルに呑み込まれ、見えない巨躯に次々と踏み潰されていく。
もはや警察や軍などアテにならない。
「ハッ……漣、ビビってんの?」
絶望的な光景に、顔を強張らせる漣に、夢愛が震える声で軽口を叩いた。
「……当たり前だろ。ビビってるよ、めちゃくちゃな。だけどよ……お前らの目を見て思ったよ、最後の最後まで足掻いてやろうってな!」
漣の二本の指で挟まれた札が、霊力を注ぎ込まれて紅蓮に燃え始める。
「出し惜しみはナシだ!いくぜ!『辰酉・炎嵐ノ舞』ッッ!!」
上空から無数の羽根手裏剣が降り注ぐ。
そしてその羽根の一枚一枚が炎を帯びて火焔の竜巻となって業虎の無防備な背中へと突き進んでいく。
巨大な火焔の龍が、業虎の巨体を飲み込み、天を焦がす程の火柱を上げた。
『グルルルル……!』
「クッソ……止まりもしねえ……」
炎の渦の中から、苛立ったような低い唸り声が響く。
地獄の業火を直撃で浴びたにもかかわらず、業虎の歩みは全く止まらない。
赤黒い獣毛が微かに焦げただけで、その肉体に傷一つ負わせることが出来なかった。
『これほどとは……小娘の成長が仇となっておる……! 千年前よりも……剛い……!』
(蘭ちゃんの成長が……最悪の形で……!)
白雨の言葉に、紬は息を呑んだ。
厳しい特訓を乗り越え、強靭になった蘭の肉体。
それがそっくりそのまま、業虎の装甲と破壊力を底上げしてしまっていたのだ。
『グルルルル……ガァァッ!!』
背後を飛ぶ「羽虫」に気付いた業虎が、鬱陶しそうに巨大な腕を振り払い、裏拳のように薙ぎ払ってきた。
風を切り裂く轟音と共に、業虎の剛腕が漣たちに迫りくる。
「来るッ!!」
「ウォァ『弾性結界』!!」
漣がすかさず次の術を展開した。
巨大な毛の壁がトランポリンのようにしなり、漣たちの軌道を強引に跳ね返し、裏拳を回避する。
猛烈な風圧に揉まれながら、三人と一匹がビルの屋上へとギリギリのところで転がり込んだ。
『間一髪じゃったな……』
「終わったかと思った……ハァ……ハァ……ありがと、漣……!」
夢愛は激しく脈打つ胸を抑えながら、肩で息をする漣に語り掛けた。
「ああ……だが、奥義も効かねえ、止まりもしねえ……! もう俺たちにできる事は……クソォッ……!」
漣が眉間にシワをよせ、歯ぎしりをする。
漣の最高火力の術が、全く通用しなかった。
警察も軍も現れる様子もない。
誰一人悲鳴を上げる事なく、次々と町ごと破壊されていく。
あまりにも呆気ない世界の終焉――
「……!! みんな……」
屋上に着地し、顔を見上げた紬が、目の前を通り過ぎようとする業虎の巨大な横顔を見て、ハッと目を丸くした。
破壊しか知らない筈の、その凶悪な紅い眼の端から大粒の水滴が、滝のようにボロボロと廃墟と化した市街地に向かって零れ落ちていたからだ。
「業虎が……泣いてる……?」
それは、間違いなく蘭の魂が、業虎の奥底でまだ生きて抗っている証拠だった──




