アイソレーション・タンク
紫織は勢いよくウオータースライダーから滑り降りた。
「きゃはははは……」
氷室達也が彼女を連れてきた場所には、普通のプールだけではなく、このスライダーや、流れるプール、そしてイルカと一緒に泳げるプールまであった。
行きたいと思っていた、スパリゾートハワイアンズより凄い。これなら今まで泳げなかった分も取り返せると、紫織はご満悦だった。
「でもな……」
この大きな施設にいるのは彼女だけだ。初めは独り占め出来ると喜んでいたが、直ぐに淋しくなってきた。もう一度イルカと遊ぼうかなと考えたら、政宗の事を思い出した。いつも紫織を背に乗せてくれる優しい犬、マサムネくん。皆に心配をかけたくなくて独りで泣いていると、決まって彼は現れて寄り添ってくれた。
もう、かえろうかな。
そう思った次の瞬間、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
「え?」
「しおりー!」
八千代にいるはずの友達が皆、プールサイドを駆けてくる。
「どうしてここに?」
「しおりにあいに来たにきまってるじゃん」
「こんどはワタシたちが、こーりやまに行くってやくそくしたでしょ?」
「じゃ、みんながアタシをここに?」
「そうだよッ、だからいっしょに遊ぼう!」
「うんッ!」
紫織は友達と一緒にイルカの背中にまたがった。
* * *
「状況はどうだい?」
「プールで友達と遊んでおります、教主様」
耶蘇未麓の問いに氷室達也は恭しく答えた。
二人の眼の前にはアイソレーション・タンクがあり、この中に真藤紫織は入れられている。タンクの中には濃縮されたエプソムソルト溶液が入っており、それに浮かぶ事で無重力を体感出来るのだ。さらに外界と感覚を遮断され、深い瞑想状態に入る。その事で強力なリラクゼーション効果やストレス解消、全身のマッサージなどの効用を得られるのだ。彼らはこの装置を別の目的で使用していた。
「鬼多見の血を引く少女、君と同じく、我々の心強い守護神となるよ」
「恐れ多い、私もこの者も教主にお仕えするのみです」
「フフフ……その謙虚さが実に素晴らしい。だからこそ君は御子神なんだ、期待しているよ」
「お任せください」
未麓は御子神と呼んだ達也を残して、タンクの部屋を出た。
廊下には長い黒髪で年齢不詳の女が立っていた。
「坂本さん、何を考えているんです」
批判的な口調よりも、本名を呼ばれた事に未麓はムッとした。
「君には関係ないだろう?」
「それを決めるのはあんたじゃない、鬼多見法眼よ。
あんたの浅はかな行動で、こっちまで巻き込まれたら溜まらないわ」
「君は客対応すら出来ないんだね。こっちは充分過ぎる金を払っているんだ、多少のリスクは我慢したまえ。それとも君の呪符は鬼多見には通じないのかな? 芦屋は名ばかりかい?
半年前、役立たずの呪符のせいで、鬼多見の小倅に酷い損害を受けたのは、君も知っているよね?」
挑発的に眼の前の女、芦屋満留を見下ろす。
「人にせいにしないで、あんたの使い方が悪いんでしょ。
半年前の事件だって、こっちにまで火の手が廻りそうだった」
「実際はならなかった」
未麓は鼻で嗤った。
「運が良かっただけだわ。大体、鬼多見法眼を敵に回すのはバカだけよ。
まぁ、好きになさい。これ以上私は関わらない、取引はこれまで」
吐き捨てるように言うと、満留は背を向けて廊下を歩いて行った。
彼女を見送りながら、未麓は懐から携帯電話を取り出し、操作をして耳に当てる。
「私だよ、鬼多見法眼はどうだい?
なるほど、順調なんだね。
引き続き頼むよ」
未麓は通話を終え、満留が去った廊下の先を見つめた。
「取引はこれまでか。
それは良かった、もう君は要らないんだよ」
未麓は口元に歪んだ笑みを浮かべた。




