猪山
風が身体を包み、激しい振動に心も震える。
蛇行した坂道をMTBで凄まじい勢いで駆け下りる。
真藤朱理の精神は自ずと集中した。
叔父の鬼多見悠輝から、座禅をするよりも無心になれると言われて始めたMTBだが、思った以上に効果があり、すっかりハマってしまった。
ここは猪山の西側に、悠輝が作った里山トレイルだ。
南側には墓地があり、東側には戌亥寺と戌亥神社、そして朱理たちが住む庫裡などがある。
この小山自体が戌亥寺の所有になっているのだが、檀家から苦情が来ないか朱理は心配していた。
当然、住職で祖父の法眼も怒っていたが、「修行の一環だ!」と叔父が主張し、強引に造ってしまった。
出来てからも祖父の怒りは収まらなかったが、朱理がこのトレイルを使うようになると、ピタリと何も言わなくなった。
それどころか、去年の十二月には誕生日とクリスマスのプレゼントを合わせて、このLivのTEMPTを買ってくれた。
悠輝は高校に入学した時、法眼に自転車を買ってもらえなかった話をしていたが、天地ほども対応が違う。
因みに叔父は祖父に対抗心を燃やし、お金もないのにヘルメットとグローブ、そしてゴーグルまで買ってくれた。
一言苦言を呈するなら、自分と色違いのお揃いにするのはやめて欲しい。
「大分様になってきたな」
朱理が麓に着くと、上から声がした。
顔を上げると、悠輝が空中に立っている。
「お帰りなさい。おじさんも、『空歩術』上手くなったね」
「何だそれ?」
叔父は階段を下るように、空中から降りてくる。彼は鬼多見家で験力と呼んでいる異能力を使い、空中に足場を作り出しているのだ。
しかし、この技もまだまだ不完全で、空中に足場を固定する事は出来るが、エレベーターのようには動かせない。
その代わりと言うわけではないが、駆け下りる事が出来るくらいには瞬時に作り出せる。
「『鬼霊戦記』ってアニメの主人公が、空中を歩くために使う術の名前。
あ、そうだ、今日、開成山公園でそのイベントをやるんだよ。刹那さんも出演するの」
「ん、御堂が? アニメのイベントだろ、何であいつが……
また便乗してんのか?」
「違う、刹那さんも、声優をやっているんだよ」
「ふ~ん、とうとうアイドルをクビになったか。ってか、何でそんな事を知っているんだ?」
「昨日、夏季講習の帰りにリハーサルを見かけたの」
朱理は塾の夏季講習に通っている。教室は戌亥寺から一〇キロほど東に行かなければならない。
母と祖父はクルマで送ると言ったが、修行も兼ねてMTBで通う事にした。
雨の日はカッパを着て通っており、汗対策も兼ねて念のため下着の替えも携帯している。
講習が終わると、雨が降ってなければ開成山公園を散歩する。
これは暑さに耐えるための修行だ。
曇りの日が多かったので修行としての効果はイマイチかも知れないが、去年までとは明らかに違う。
日に日に蒸し暑さが気にならなくなった。
念のためスポーツドリンクを持ち歩いていたが、飲まなくても体調が悪くなる事はなく、むしろ今までより調子がいい。
御堂刹那を見たのはこの修行の最中だ。
開成山公園にある野外音楽堂でリハーサルをしていて、彼女の他にも声優の島
村舞桜と沖田沙耶、そして監督の東雲智浩がいた。
さほどアニメに詳しくないので、刹那以外の声優は『鬼霊戦記』で初めて名前を知った。
「ふ~ん、沖田沙耶か……」
「知ってるの?」
「ああ、叔父ちゃんが高校生の頃、凄く人気があった声優だよ。まだ、やってたんだな。
島村舞桜は知らないなぁ」
「刹那さんと同じ新人だから」
「やっぱり。東雲監督は知ってる。おれをシナリオライターで使ってくれないかな」
「それはムリ」
思わず断言すると、叔父は顔を顰めた。
「あ、そうだ、副業はどうだったの?」
悠輝は全く収入にならないのにシナリオライターが本業だと言い張っている。
八千代にいる時も、電話占いのバイトとその副業で拝み屋をして生計を立てていた。
郡山に来てからは収入源は拝み屋だけだ。
断腸の思いで法眼に頭を下げて、依頼を回してもらっているのだ。
「久々に魔物に会った」
悠輝は県外からの依頼で、昨日から泊まりがけで出かけていた。
内容は夜になると小学生の息子が異常な行動を取るという物だった。
日中は至って普通なのに、夜中に冷蔵庫の中の物を食い散らかしたり、家を抜け出して傷だらけになって帰って来たりする。
両親が異常行動に気付いて止めようとすると、信じられない力で暴れて手が着けられない。
ところが、朝になるといつも通りに戻り、夜の記憶が全くない。
精神科にも見せたが少しも改善されないため、戌亥寺に白羽の矢が立った。
「その子に魔物が取り憑いていた?」
「ああ」
魔物とは肉体を持たず、人に禍をもたらす危険な存在だ。
その正体は祖父にも正確には解らない。
妖魔、妖怪、悪魔、そして鬼……様々な呼び方があるが、いずれも基本的には同じモノだ。
ただ、幽霊や霊とは別物で、こっちは人間の残留思念だと叔父は言う。
ちなみにこの点は、祖父は人間の魂と解釈している。
僧侶なのだから当然だ。
「じゃあ、その子も験力を……」
「明人よりも弱いけどね。あれだけ微弱なら普通は狙われない、よっぽど鼻の利く魔物だったのか……
どっちにしろ、キッチリ斃して来たから一件落着だ」
「じゃあ、こんな所にいないで休んだら? ほとんど寝てないんでしょ?」
「そうする。もうすぐお昼だし、一緒に戻ろう」
そう言いながら朱理の頭をなでようとしたので、素早くかわした。叔父の手は虚しく空をつかみ、淋しそうな顔をする。
少しションボリしつつ、彼もMTBで迎えに来ていたので、二人で猪山の麓を廻って戌亥寺へ向かう。
山の東側に設けられた駐車場は使わず、自転車を担いで石段を上がる。
段数が結構あるので大変だが、これも修行の一環だ。初めは叔父や祖父に支えてもらったが、今では独りで運べるようになった。
MTBを祖父が造った駐輪スペースに止めて、庫裡に入る。
「ただいまぁ」
と言うと、母の「お帰り?」という声と、二匹の犬の吠える声がした。
茶の間の襖を開けると、中から冷えた空気と共にクロシバと白い秋田犬が飛び出して来て、朱理にじゃれつく。
「ボンちゃん、マサムネくん、ただいま」
クロシバのボンちゃんこと梵天丸は八千代で悠輝が飼っていて、一緒に郡山に連れてきた。秋田犬の政宗は祖父が飼っている。
二匹とも今年で三歳になる。政宗は紫織を乗せて走れるほど大きくて力持ちだが、後から来て自分よりも大分小さい梵天丸を上位と認めている。
そのため、梵天丸に遠慮しながら朱理にじゃれている。
梵天丸は朱理の命の恩人でもあるので当然だが、心優しい政宗も今では大切な家族だ。
「お前ら、おれの方には来ないのな……」
後ろで叔父が淋しそうに言った。
政宗が気をつかって、悠輝の方へ行く。
「お前はいい子だなぁ」
頭を撫でながらしみじみという。
「入るならすぐに入りなさいッ、電気代がもったいないでしょ!」
「はいッ」
中から聞こえた声に朱理は条件反射で応えて、梵天丸を抱きかかえて茶の間に入った。
悠輝は逃げようとする政宗を引きずって朱理に続いた。
「あんまり恐い声出すなよ、政宗が怯えるだろ」
襖を閉めながら言い返す。
「開けたらすぐ閉めるッ。折角エアコンをかけているのに、室温が上がるじゃない」
「わかったよ、お母さん」
ぷりぷり文句を言っているのは朱理の母、真藤遙香だ。
非常に気の強い人なので、このままだと叔父とケンカになる。
平和主義者の朱理は、何かとこの面倒くさい姉弟に気をつかっている。
余談だが、遙香は悠輝よりも強力な験力を使えるが、拝み屋の仕事をしていない。
専業主婦のはずが、炊事は悠輝と明人と三人でシフト制で、掃除はそれぞれ分担があり、母が他の家族より多いわけでもない。
朱理は秘かにニート主婦だと思っている。
しかし、その事を本人の前で思い浮かべると百パーセントバレるので充分注意していた。
そう、母に隠し事は出来ない、それが彼女の験力だからだ。
人の思考を読んだり、幻を見せたり、本気を出せば感情や記憶を書き換える事だって可能だ。
本人は嫌がっているが、非常に祖父の異能力に似ている。
「今日は明人さんが当番だよね? わたし手伝ってくる」
母にまた何か言われる前に、朱理は逃げ出す事にした。
台所に入ると、明人が汗をかきながら素麺をゆでている。
「あ、お帰り」
「ただ今戻りました、手伝います」
「じゃあ、器を……」
「あ、わたし、熱さに強いから、そっちをやります」
「そう? 有り難う」
明人は朱理と変わると溜息を吐きながらタオルで顔を拭く、続いて素早く手を洗い、今度は器の準備をする。
丁度ゆで上がったので、朱理は準備されたザルに鍋を傾ける。
もうもうと湯気が上がり顔を包む。
かなりの高温なのは判るが、それほど熱く感じない。
お湯が飛び散って手にかかっても同じだ、湯気よりは熱いが火傷もしない。
修行の成果と誇らしく思う反面、自分は人間から遠ざかっているのではないかという嫌悪と恐怖も感じる。
今度はザルごと水の入ったボウルに移し、粗熱を取る。そのあと水道の水を流しながら良く揉み洗いをする。
後は大皿に盛り付けて完成だ。
「そう言えば、紫織ちゃん、遅いな」
明人が壁掛け時計を見て呟く、朱理も確かめると十二時半を過ぎている。いつもなら遅くても十二時頃には戻って来ているはずだ。
嫌な予感を覚えた刹那、悠輝が台所に入ってきた。
「明人、今から姉貴と紫織を迎えに行くから、朱理たちをよろしく頼む。あと、念のため戸締まりをしっかりしておいてくれ」
朱理を不安がらせないためだろう、努めて平静を装っているが、雰囲気がわずかにピリピリしている。
向こうの部屋で政宗と梵天丸の鳴き声がする、非常事態を察知したのだろう。
明人もそれを感じているのだろう、表情が強ばった。
「うん、ユウ兄ちゃんたちも気をつけて」
悠輝は力強く頷くと朱理の方を向き、「行ってきます」と言い残し庫裡から出て行った。
部屋に閉じ込められた犬たちは、吠えるのをやめない。
「わたし、ボンちゃんとマサムネくんに静かにするように言ってきます」
「ああ、お願いするよ。それが終わったら、素麺が伸びる前に食べちゃおう」
「はい」
朱理は犬たちをなだめるため、茶の間へ向かった。




