逢瀬町
八月に入って雨の日が続いていた。例年に比べ暑くはないが、かと言って涼しいわけでもない。ようやくお盆を過ぎて雨はやんだが、それでも空は晴れる事なく、曇って蒸す日が続いている。この状況に、真藤紫織は焦っていた。
昨年秋、千葉県八千代市からこの福島県郡山市に引っ越してきた。父だけが向こうに単身赴任状態で残っている。父と離れて暮らすのは淋しいが、週末はこっちに来る事が多いし、お盆は向こうで過ごした。
引越で友達と別れるのは辛かったが、たまに戻るとプレミア感が生まれる事に紫織は気付いてしまった。人見知りをしない彼女は、郡山でも直ぐに友達を作る事に成功した。ここが姉の朱
理とは違う。
でも、もう少し向こうにいたかったな……
紫織が住んでいた稲本団地は、かつてマンモス団地と呼ばれた場所で、保育所から中学校まで一緒に過ごす子供たちが多い。そんな親しい友達と離れているのも、やっぱり寂しかった。
紫織は頭を勢いよく振った。今はもっと考えなければならない問題がある。関東では八月末まである夏休みが、ここ福島では八月二四日までしかない。一週間も短いのだ。焦っていると言っても、宿題が終わっていないのではない。
雨が続き、母から口うるさく言われ、さらに宿題の下請け、もとい勉強を教えてくれるお兄さんも出来たので、小学生生活三年目にして初めてお盆前にほとんど終えていた。
では、何が紫織を焦らすのか、それはプールだ。彼女は水泳が大好きなのに、今年はほとんど泳いでいない。先月、開成山公園に屋内プールがオープンしたが、遠くにあるのに加え、お金もかかるので毎日は連れて行ってもらえない。
本当なら猪苗代湖に湖水浴にも行く予定だったが、それも天気のせいでドライブのみになってしまった。
せっかくの夏休みなのにサイテーだよ……
午前中は友達の家で勉強と称して遊んだので、出来ることなら午後は開成山公園のプールに連れて行って欲しい。残念な事に、我が儘を聞いてくれる祖父は用事があって不在で、母は居るが絶望的だ。
ガマンするしかないか……
溜息が出た。午後は誰か遊び相手が見つかればいいが、家でゲームばかりしていると母に叱られる。験力の修行は毎日やらされているのに不公平だ。姉は自ら進んで修行をやりたがるが、紫織は好きじゃない。
座禅を組んだり、お経を読んだり、眠くなる話しを聞いたり、全く面白くない。中には拳法の練習や、愛犬の政宗に乗ったり、楽しい事もあるが、プールの方がズッといい。紫織も少しは不思議な能力を使えるようになったが、コントロールがまだまだで、朱理に負けている。やぱり真面目にやっている方に分があるのだ。
でも、アタシの方がチカラは強いんだよね。
母と叔父がそう言っているのを聞いた。ただし、能力が強くてもいい事は何も無い。コントロールが下手なのもあるが、秘密にしなければならないからだ。口止めされれば言いたくなる。でも、母が滅多に見せない本気の顔で言ったので、言いつけを破ったら酷い事になってしまう。
それに、紫織の直感も秘密にしておいた方が良いと言っている。この直感は外れた事がない、そのため珍しく紫織は約束を守り続けていた。
そんな事を考えながらトボトボ歩いていると、一台の高そうな外車が紫織の隣で止まった。見慣れない高級車に思わず立ち止まり、観察してしまった。彼女は知らないが、それはメルセデス・マイバッハのSクラスだ。
窓が開き、中から紫織と同い年ぐらいの少年が顔を出す。
「君、真藤紫織さんだよね、僕は氷室達也」
何でアタシの名前を知っているの? そう聞きたかったのに、
「はじめまして、なにかご用ですか?」
口から出たのは全く別の言葉だった。
いけない、何かがおかしい。
そう思っているのに頭がボーッとして、考えがまとまらない。
「泳ぐのが好きなんだろう? 僕の家にはプールがあるんだ、一緒に来たら好きなだけ使っていいよ」
車のドアが開く。
いっちゃダメ……
頭の片隅で警報音が鳴っている。でも、何が危険なのか紫織は判らない。達也に守ってもらった方がいい。
「さあ、おいで」
紫織は自分の思考の矛盾に気付かぬまま、フラフラとマイバッハに乗り込んだ。




