崩れゆく日常
無事、北の最果てに眠る隠しバグアイテムを手に入れ、王都にあるアルシュタット公爵邸の自室へと帰還した私は、勝利の余韻に浸っていた。
私の首元、衣服の隙間に隠された革の小袋。
井戸の底で自身の肌に突き立てたペーパーナイフが、火花を散らすような音を立てて弾かれたときの、あのぞっとするほどの全能感が伝わってくるかのよう。
これでもう、私を陥れようとするフラグの陰謀も、私を断罪しようとする運命の傲慢も、ただの滑稽な茶番劇に成り下がったのだ。
――しかし。
自室の天蓋付きベッドに身を横たえ、一息ついた私は、胸元に奇妙な「軽さ」を感じて眉をひそめた。
先ほどまで、確かに肌に触れていたはずの、あのずっしりとした牙の質量。それが、妙に薄れているような気がしたのだ。
いぶかしみながら、私は首から下げていた革紐を引っ張り上げ、胸元の小袋に手を伸ばした。
「……あら?」
指先が袋に触れた瞬間、パサリ、と乾いた音がした。
上質な魔獣の革をなめして作らせた、頑丈極まりないはずの革袋が、まるで数千年の歳月を経て風化したミイラの皮膚のように、触れただけで一瞬にして灰色の粉末となって崩れ落ちたのだ。
ベッドのシーツの上に、さらさらと零れ落ちる灰色の塵。
驚愕に目を見開いた私の視界に、袋の中に収められていた「中身」が転がり出た。
「嘘、でしょう……?」
言葉を失った。
シーツの上に転がったのは、鈍く光を放つ、あの牙――だけだった。
それと一緒に入れてあったはずの[ミルドの球根]は、影も形もない。ただ、牙のすぐ傍らに、他の塵よりも少しだけ黄色みを帯びた、細かな砂のようなものが残されているだけだった。
即座に理解した。
何万株に一株という奇跡的な確率で手に入れた、私の大切な「十パーセントの加護」が、塵となって消滅してしまったのだ。
「そんな……なぜ!? ゲームの仕様では、この二つは同時に装備できたはずよ!」
私はベッドから飛び起き、シーツの上の牙を凝視した。
意思を持たぬまま具現化してしまった怪物。そのおとぎ話を見誤っていてしまったようだ。
その存在自体は、ただそこに漂うだけであり、こちらから刺激しなければ危害を加えてこない、基本的には「無害」な存在である。つまり、牙自体だけでも危険なのだ。この牙が放つ本質的な性質は、周囲のあらゆる物質の「存在確率」を吸い込み、無へと還元してしまう、極めて凶悪な浸食力だったのかもしれない。
「神の恩恵という名の効力すら侵食しているというの……。一体なんなのよこれは」
ゲームの画面上では、単に「ダメージ九割軽減のアクセサリー」としてデータ化されていたから、周囲のアイテムが風化するなどは描写されなかった。しかし、ここは現実の肉体と物質が存在する世界だ。
ゲームの仕様が現実の物理法則(神の恩恵)として肉体化された結果、その牙が持つ『周囲を虚無に浸食する特性』までが、生々しく発現してしまったのかもしれない。
ミルドの球根は、そのあまりにも強大すぎる異質な力に当てられ、一瞬にして存在の歴史を数万年分進められ、風化して消滅してしまったのかもしれない。
全身から血の気が引いていくのがわかった。
球根が消えた。ということは、私の現在のダメージ軽減率は、竜歯(アパシーの牙)単体の「九十パーセント」に戻ってしまったということだ。おまけにこの時限爆弾をあろうことか、バーゲンセール品みたいに持って帰ってしまった。
「……ちょっと、まさか、嘘でしょ……」
私は、牙が転がっている天蓋付きベッドのシーツに目をやった。
シルクで織られた一級品のシーツが、牙が触れている部分からじわじわと、黒ずんでボロボロに変色し始めている。
私は慌てて、手近にあった厚手のウールの毛布を使い、直接触れないようにして牙を包み込んだ。
そして、部屋の隅にある精巧な彫刻が施された木製のサイドテーブルの上に、その毛布の包みを置いた。
今日のところは、これで一晩様子を見るしかない。私はその日の晩餐をとるため、渋々部屋を後にした。
食堂で不味いスープ(私の心がそれどころではなかったため、そう感じただけだが)を流し込み、入浴も済ませた。心身ともにくたびれてしまった私は、すぐさま自室へと戻った。しかし私を待っていたのは、さらなる悪夢だった。
「なにこれ……」
呆然と立ち尽くす。
サイドテーブルがあった場所。そこには、数時間前まであったはずの、オークの巨木から作られた頑丈な机の姿はなかった。
ただ、不自然な形に盛り上がった、黒い砂のような山の中心に、あの紫色の牙がぽつんと乗っかっているだけ。
牙を包んでいたはずの厚手の毛布も、サイドテーブルも、完全に存在ごと吸い込まれ、炭のような灰となって崩壊していた。
それどころか、牙が直接触れてしまった床の絨毯は丸く焼け焦げたように消滅し、その下の強固な石造りの床板すらも、灰色に変色して今にもひび割れそうなほど劣化し始めていた。
このまま放置すれば、この公爵邸そのものが、じわじわと崩壊して奈落に落ちる。
何より、これでは新しい[ミルドの球根]を見つけてきて接触させたとしても、再び一瞬で灰にされてしまう。
まずは、この『アパシー・コロッサスの牙』の浸食力を完全に遮断し、安全に持ち運ぶための「保管容器」を、一刻も早く構築しなければならない。
「ルードヴィヒ!」
私が鋭く名を呼ぶと、扉の外で控えていた忠実な護衛騎士が、音もなく部屋に入ってきた。彼は一瞬、灰の山と化したサイドテーブルの残骸に視線を走らせたが、すぐに表情を消して片膝を突いた。
「お呼びでしょうか、ロザリア様」
「大至急、公爵家の名において、王都で最高の鋳造師、魔術彫刻師、そして錬金術師を内密に召喚なさい。誰にも悟られてはならないわ。もし理由を聞かれたら……そうね、私が領地の魔力鉱山の調査で見つけた『極めて不安定で希少な古代の魔力結晶』を安全に保管するための、頑丈なケースを開発させるのだと適当に言いくるめなさい」
「畏まりました。今すぐ手配いたします」
ルードヴィヒは余計な質問を一切せず、風のように立ち去った。
私は公爵令嬢としての莫大な権力と資金、そして「古代魔力結晶の保管」という精緻な嘘をフル活用し、国のトップクラスの技術者たちを動かした。
彼らには正体を隠した牙(その周囲を侵食する力の一部を抽出したダミー)を提示し、あらゆる手段でそのエネルギーを封じ込める容器を競作させた。
しかし――結果は惨憺たるものだった。
最初に上がってきたのは、神聖な金属とされる「ミスリル」を何重にも精巧に鍛え上げ、神聖魔術の結界を刻み込んだ強固な箱だった。
だが、その箱に牙を納めた瞬間、ミスリルは青白い輝きを失い、ものの数時間で、まるでただの泥のように崩れて流れてしまった。
次に試した、魔力を反射する最高強度の合金「オリハルコン」の円筒。これも、一日と持たずに表面が腐食し、無残な穴が空いた。
最高位の魔術師が、自らの魔力を注ぎ込んで作り上げた「積層型魔力障壁のガラス容器」に至っては、牙を入れた瞬間に、障壁を構成する魔力そのものが『虚無』に喰われ、ガラスが破裂して飛び散る始末だった。
「物理的な強度も、魔術的な結界も、すべて『虚無の概念』の前には等しく無に帰すというの……!?」
私は絶望的な気分で、日々崩壊していく暫定の保管箱を取り替えながら牙を移し替え、見つめていた。
このままでは拉致があかない。
これほどの超常的な力を封じ込める術は、現代の、しかも表の技術や魔術の中には存在しない。
「なら、過去の遺物に頼るしかないわね」
私は、公爵邸の地下深くにある、歴史あるアルシュタット家の巨大な「大書庫」に引きこもることを決意した。
ここには、建国以前の古文書から、教会が『禁書』に指定した異端の魔術書、さらには歴代の当主たちが世界中から集めた奇妙な伝承の記録まで、あらゆる紙の知識が眠っている。
そこからの私の生活は、一変した。
ドレスを動きやすい質素なものに着替え、長い髪を無造作にまとめ、埃っぽい書庫の奥で、朝から晩まで本を貪り読む日々。
虚無、アパシー・コロッサス、神魔の残滓、不要感情、存在の消滅――。
関連しそうなキーワードが含まれる書物を、それこそ手当たり次第に引っ張り出しては、ページをめくり続けた。
その必死な探究の副産物として、私の脳内には、かつてのゲーム知識を遥かに超越した「この異世界の知識」が恐ろしい勢いで蓄積されていった。
古代エルフ帝国の失われた錬金術の配合比率。
教会が隠蔽し続けている、百年前の聖女の「奇跡」の正体。
隣国との国境を跨ぐと神の恩恵が失われる現象を説明する、古代ドワーフの「領土境界結界装置」の理論。
普通なら生涯をかけて学ぶような深遠な魔術理論や歴史の真実が、牙を封じ込めるというただ一つの目的のために、私の頭脳へと吸い込まれていく。
私は、自分が知らず知らずのうちに、王国で最も「世界の真実」に詳しい魔導学者へと変貌しつつあることすら自覚していなかった。
だが、そんな私の「奇行」は、周囲の人間から見れば、完全に常軌を逸した事態だった。
「ロザリア、お前、最近どうしたのだ?」
ある日、書庫から這い出してきた私を呼び止めたのは、私の父であるアルシュタット公爵だった。
普段は冷厳で、私に対しても厳格に接する父だったが、その表情には明らかな動揺と心配が滲んでいた。
「最近、夜会の招待をすべて断っていると聞いた。そればかりか、貴族の令嬢としての社交を一切行わず、このような地下書庫に引きこもってばかり……。お前が愛してやまなかったはずの、新作のドレスや宝石の買い付けすら、すべて追い返しているそうではないか」
父だけでない。
母は「ロザリアが何か恐ろしい病気に罹ってしまったのではないか」と、毎日部屋で涙を流しているという。
親戚の人達や、婚約者である王太子の周囲の者たちまでもが、「アルシュタット公爵令嬢は精神を病んだ」「あるいは、何者かの呪いで廃人になったのではないか」と、まことしやかに噂し始めているらしい。
普段の傲慢で派手好き、他者を見下すことに喜びを感じていた悪役令嬢ロザリアが、突然すべての社交界から姿を消し、狂ったように禁書を読み漁っているのだ。彼らが「不穏な前兆」として怯えるのも無理はなかった。
「……お父様、心配は無用ですわ。私はただ、自身の『将来』のために、少しばかり学問に専念しているだけです」
私は冷ややかにそう言って、父の視線をかわした。
将来のため――それは嘘ではない。
この『アパシー・コロッサスの牙』を封じ込める方法を見つけ出し、同時に絶対防御を完成させなければ、私の将来(破滅回避)は存在しないのだから。
しかし、タイムリミットは近づいている。
今日も自室の床下からは、じわじわと不気味な『無』の気配が這い上がってきている。
私は明日も再び、暗い書庫の奥へと『何かに憑りつかれたように』足を踏み入れるのだった。




