パンドラの箱
目的地である「ファルネーゼの廃村」への道中は、決して平坦なものではなかった。
王都から北へ馬車を走らせること三日。街道を外れ、生い茂る原生林の中を進む頃には、道と呼べるものは完全に消え失せていた。
このあたりは数十年前、ある凄惨な疫病と、それに伴う「呪い」によって一晩にして滅びたと噂される禁忌の地だ。今では魔獣の巣窟と化しており、まともな人間が近づく場所ではない。
「グルルル……ッ!」
突如、鬱蒼とした木々の隙間から、赤く光る眼を持った「黒鬣の魔狼」が三頭、踊り出てきた。並の兵士であれば足がすくむような凶暴な魔獣だ。
しかし、御者台から飛び降りたルードヴィヒの動きには、一切の淀みがなかった。
彼が腰の長剣を抜いた瞬間、銀色の閃光が走る。
一閃。一頭の首が宙を舞い、黒い血が飛び散る。
すかさず、残る二頭が左右から同時に襲いかかったが、ルードヴィヒは半身を翻してその牙を紙一重でかわすと、流れるような動作で剣を突き出し、もう一頭の心臓を正確に貫いた。最後の一頭が恐怖に慄いて後退しようとした瞬間には、すでに彼の刃はその眉間を縦に両断していた。
わずか数秒の、完璧な蹂躙。
ルードヴィヒは剣に付着した血を鋭く振り払い、鞘に収めると、何事もなかったかのように馬車の扉を開けた。
「お怪我はありませんか、ロザリア様」
「ええ、完璧な身のこなしね、ルードヴィヒ。あなたの剣を借りる必要すらなかったわ」
私は馬車の中から、その鮮やかな手並みを優雅に称賛した。
実は、この魔獣との遭遇も、ゲームの「敵エンカウントエリア」の設定通りだった。この林を抜ければ、目的の廃村はすぐそこだ。
やがて、木々の隙間から、朽ち果てた木造の家屋が立ち並ぶ、不気味な静寂に包まれた広場が見えてきた。
ここがファルネーゼの廃村。
建物の壁は黒く変色し、まるで火災に遭ったかのように炭化している。地面は湿った泥濘となっており、立ち込める霧が視界を遮っていた。
馬車を止め、私は泥を避けるように注意深く地面に降り立つ。ルードヴィヒはすぐさま私の斜め後ろに付き、周囲への警戒を怠らない。
「お嬢様、この地は悪しき魔力が満ちております。長居は無用かと」
「わかっているわ。目的のものは、あの村の中央にある井戸の中よ」
私は扇で口元を隠しながら、村の広場の中央にぽつんと佇む、石造りの古びた井戸を指差した。
その井戸の周囲だけ、奇妙なほど草木が枯れ果て、赤黒い土が露出している。一目で「呪われている」とわかる外見だ。
この井戸には、ゲームにおける最大の隠しバグイベントが存在していた。
ゲームの内部時計において、「十日連続で満月が続いた、その翌日」にのみ、この井戸の底に特殊なイベントオブジェクトが発生するのだ。
現実のこの世界において、満月が十日連続で続くなどという天体現象は通常は起こり得ない。しかし、この国の暦と星の動きを何年も細かく計算し、観測し続けた結果、私は「今宵がまさに、その十日連続の満月の翌日」であることを突き止めた。この世界の神が定めた世界の運行すら、あの狂ったゲームのプログラムの残滓に干渉されている証拠だった。
私たちは井戸の縁に歩み寄った。
中を覗き込むと、遥か深淵の底は、ただの暗闇ではない。ねっとりとした、紫色の澱んだ霧が渦巻いており、底知れぬ邪悪な気配が這い上がってくる。
「……ルードヴィヒ、ロープを。私が中に入るわ」
「お嬢様、それはあまりにも危険です。私が代わりに入り、その『目的の物』を回収してまいります」
忠実な騎士が、初めて私の言葉を遮って懇願した。彼の瞳には、主を失うことへの本物の恐怖が宿っている。
しかし、私は首を振った。
「いいえ、これは私でなければ意味がないの。心配いらないわ、ルードヴィヒ。私を信じなさい」
「……御意。この命に代えても、お嬢様を繋ぎ止めます」
ルードヴィヒはそれ以上引き下がらず、頑丈な麻縄を井戸の周囲の太い石柱に括り付け、その端を私の腰にしっかりと巻きつけた。彼の太い腕が、私の体を支えるようにロープを握りしめる。
「では、行ってまいりますわね」
私はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、躊躇うことなく、暗黒の井戸の底へと身を投じた。
冷たい風が耳元を掠め、不快な湿気と、腐肉のような悪臭が鼻腔を突く。
ルードヴィヒがロープを慎重に緩めるにつれ、私はゆっくりと闇の深淵へと下降していった。
やがて、足がぬるりとした冷たい泥に触れる。井戸の底に到着したのだ。
上を見上げると、井戸の円形の口が、遥か彼方で小さな光の輪として見えている。
「さて……どこかしら」
私は懐から魔石を埋め込んだ小さなエルフの魔法ランタンを取り出し、周囲を照らした。
湿った石壁。へばりつくコケ。そして、足元には無数の動物、あるいは人間のものと思われる白骨が散乱していた。
その時、ランタンの青白い光の中に、不自然に宙に浮遊する「何か」が浮かび上がった。
それは、鈍く紫色の光を放つ、不気味な異型の頭蓋骨だった。
肉は完全に削げ落ちているが、その眼窩からは、まるで生きているかのような憎悪に満ちた赤い鬼火が揺らめいている。
ゲームにおけるイベントボス――深淵の呪縛。惨殺されたか弱き女性だ。ヒロイン達が、呪いを解くというありきたりなイベントだ。
本来なら、中盤でパーティを率いて挑み、数時間の死闘の末に倒すボスだ。同行したキャラ達の好感度が上がるイベントの一つ。
「十日連続満月の翌日」という条件下においては、このボスは目覚めぬままただの「無害なオブジェクト」としてその場に静止している。
頭蓋骨は、目の前に立つ私を睨みつけながら、カタカタと顎を鳴らしているが、襲いかかってくる気配は一切ない。
私はフッと冷笑を漏らし、その不気味な頭蓋骨の目の前に歩み寄った。
「本当に無抵抗ね。綺麗に成仏させてあげられないのは残念だけど、どっちにしろ終わるわ」
私はランタンを置き、両手でその頭蓋骨の顎を掴み、強制的にこじ開けた。
頭蓋骨の奥、上顎の奥歯の並びの中に、一本だけ、他の白骨とは明らかに異なる、黄金色に怪しく輝く「鋭い歯」が埋め込まれている。
これこそが、私の求めていた究極のアイテム。
――『アパシー・コロッサス(虚無の集積体)』の濃縮牙の一部。ゲームでは存在しなかった存在だけど、この世界では深淵に生息する怪物として恐れられている。悪魔が生み出した怪物だ。存在自体は無害らしい。絶賛放置中というわけだ。
ゲームの設定では、この危険な牙を加工した物を神聖な遺物とされ、装備者に「虚無の守護:あらゆる物理・魔法ダメージ9割軽減」という狂ったステータスを付与する、ゲーム中唯一無二のアクセサリーだ。ゲームの仕様が、一部干渉したおかげで、この常軌を逸したアイテムを、私が手に入れられたというわけだ。この世界の詳しい事は分からないが、結果的にこうして手に入れられたというわけだ。
入手方法が元々ない上に、異世界の現実として接触しなければ手に入れないというのは、まさに私の為にあるようなものだろう。
「ふんっ……!」
私は指先に力を込め、その牙を力任せに引き抜いた。
メリメリと不快な音が響き、次の瞬間、虚無の怪物の牙――が私の手の中に収まった。
その瞬間、頭蓋骨は悲鳴のような風の音を残して、紫色の霧と共に霧散した。
手の中に残された、冷たく、しかし圧倒的な質量を感じさせる牙。多くの神々や悪魔達の力が宿っている。
私はそれを、自身の首に飾られた革紐の袋へと滑り込ませた。その袋の中には、すでに[ミルドの球根]が入っている。
二つのアイテムが、私の胸元で接触した。
――カチリ。
脳内で、そんな「音がした」ような錯覚を覚えた。
瞬間、私の体を取り巻く空気が、一変した。
目に見える変化は何もない。しかし、私の「魂」が書き換えられたことを理解した。
完全に合算され、私の体に「ダメージ軽減率100%」という絶対の加護が定着したのだ。
私は、自身の左手の甲を、懐から取り出したペーパーナイフで全力で突き刺した。
――キンッ!
静寂の井戸の底に、金属同士が激突したかのような澄んだ音が響き渡った。
ナイフの刃先は、私の柔らかい皮膚に触れた瞬間、見えない「虚無の壁」に阻まれ、それ以上一ミリも進むことができなかった。痛みなど、微塵もない。虫に刺された感覚すらしない。
何度も、何度も、力を込めて突き刺すが、結果は同じだった。私の肌は、掠り傷一つ負うことはない。
「……あは」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
それが、次第に大きくなり、私はこらえきれずに、井戸の底で狂おしく高笑いを始めた。
「あはははははは! 素晴らしい! 本当に、本当に完璧だわ!」
私の声は、不気味な井戸の石壁に反響し、幾重にも重なって闇の中に溶けていく。
「これで私は、この国において完全無欠の『絶対存在』になった! 毒も、剣も、魔法も、断頭台も、私を殺すことはおろか、傷つけることすら叶わない!」
破滅フラグ? 断罪イベント?
来るなら来るがいいわ。
王太子よ、聖女よ、私を断罪したければ、この無敵の肉体を前に、その身勝手な正義とやらがどれほど無力か、その身を以て知るがいいのよ。
「さあ、始めましょう。私を害するすべての愚か者たちを、蹂躙する物語を!」
暗黒の井戸の底で、悪役令嬢ロザリアの、常識を嘲笑う破滅回避劇の幕が、今、静かに上がった。




