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断罪、追放、処刑? できるものなら、どうぞ  作者: 逆立ちハムスター


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4/8

触れられない距離、届かぬ真実

――今日で、いくつの高価な箱が使い物にならなくなったのか分からない。

自室の床をこれ以上浸食させないため、私は領地から取り寄せたありふれた鉄箱に『アパシー・コロッサス』の牙を入れ、一日ごとに新しい箱へと移し替えるという、綱渡りのような泥縄式の対処を続けていた。

牙を移し替える一瞬、鉄箱の内側は、まるで強い酸でも浴びせられたかのようにドロドロに融け、やがてさらさらとした黒い砂鉄となって崩れ落ちる。

その光景を見るたびに、私の心臓は冷たい手で鷲掴みにされるような恐怖に襲われた。

(もし、この『虚無』の浸食力が、私自身の肉体にまで伝染してしまったら?)

(あるいは、この牙を身につけていた私自身が『伝染媒体』となって、私が触れた人、触れたものをすべて、灰にしてしまうのではないか……?)

現に、毎日牙を移し替えている私の右手の人差し指と親指の先は、どんなに高級な保湿クリームを塗っても、カサカサと白く粉を吹いたように乾燥し、感覚がわずかに鈍くなり始めている。

気のせいかもしれないが、紛れもない恐怖だった。

ゲームの仕様をついて手に入れた「九十パーセントの絶対防御」。だがその代償は、いつ私自身を、そして周囲のすべてをアパシーに帰すかもわからない、時限爆弾のような呪いに変わっていた。


この呪いを解く、あるいは安全に封じ込めるための手段が、どこかにあるはずだ。

私は、アルシュタット公爵家の大書庫にある本をほぼ読み尽くしたが、まだ決定的な答えには至っていなかった。

もっと高次元の、それこそ国に数冊しか存在しないような、古代のドワーフや魔導学者たちが記した専門書でなければ、この「概念の消滅(風化)」を制御するヒントは得られない。

だが、そんな超一級の禁書や魔導書は、一介の公爵家がどれほど権力を持っていようとも、簡単には手に入らない。それらはすべて、王宮の奥深く――王室関係者しか立ち入ることを許されない「王宮書庫・特別閲覧室」に厳重に保管されているからだ。


「どうすれば、あそこに潜り込めるかしら……」


机に突っ伏し、眉間を押さえて唸っていたそのとき、コンコン、と自室の扉が遠慮がちに叩かれた。

現れたのは、護衛のルードヴィヒではなく、公爵家の老執事だった。彼は恐る恐る私を見つめ、信じられない名を口にした。


「ロザリアお嬢様……。その、王太子アルベルト殿下が、お嬢様にお会いになりたいと、応接室にてお待ちでございます」

「……アルベルト様が?」


思わず、嫌な顔が表に出てしまいそうになった。

アルベルト・フォン・グランツ。この国の第一王子であり、私の「婚約者」だ。そして何より、このゲームにおけるメインヒーローであり、本来のシナリオであれば、私(悪役令嬢)を奈落の底へと突き落とす「断罪の実行者」である。

以前の私は、彼に対してとにかく傲慢だった。

欲しいものがあれば、彼の都合も考えずに「アルベルト様、これ買って!」「あそこの宝石店の新作、私に一番に用意させて!」と激しくねだり、それが少しでも思い通りにならないと、周囲の使用人や身分の低い貴族たちに当たり散らす。

彼にとって、私との婚約は「公爵家との政略的な義務」でしかなく、その性格の悪さも相まって、私を心底嫌悪していたはずだった。


それがなぜ、わざわざ公爵邸まで私を訪ねてきたのか。

私は慌てて、質素な部屋着から、最低限の体裁を整えたドレスに着替え、問題の『牙』を厳重にウールで包んで箱をタンスの奥に突っ込んだ。――1時間は周囲に影響を及ぼさないはずだ。

重い足取りで応接室の扉を開けると、そこには、プラチナブロンドの髪に涼しげな青い瞳を持つ、絵画から抜け出してきたような美青年が佇んでいた。彼こそが王太子アルベルトだ。


「ごきげんよう、アルベルト様。急なご来訪、どういった風の吹き回しでしょうか?」


私は、かつての傲慢なロザリアの「猫かぶり」を意識しながら、優雅に一礼した。

アルベルトは、私を一瞥すると、その整った眉をわずかにひそめた。彼の瞳には、明らかな「戸惑い」と「警戒」の色が混ざり合っている。


「……久しぶりだね、ロザリア。君がしばらく社交界にも顔を出さず、邸に引きこもっていると聞いてね。病気でもしたのかと、様子を見に来たんだが……」


彼の視線が、私の姿を上から下へと値踏みするように動いた。

以前の私なら、彼が来訪したと聞けば、これでもかと着飾って、香水をきつく振りまき、彼の腕にしがみついていただろう。だが、今の私は、最低限の化粧しかしておらず、髪も簡素にまとめただけ。おまけに、ドレスの袖からは、本を読み漁ったせいで少しインクの汚れた指先が見え隠れしている。


「お気遣い、痛み入りますわ。ただ、少しばかり調べ物に没頭しておりまして。お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」

「調べ物……? 君が、本を?」


アルベルトは、まるで「太陽が西から昇った」とでも言いたげな、信じられないという表情をした。

かつての私が読んだ本といえば、流行のファッション誌や、他人の醜聞が書かれた三流のゴシップ紙くらいだったのだから、当然の反応だろう。

アルベルトは応接室のソファに腰掛け、私をじっと見つめながら、試すような口調で言った。


「以前の君なら、私が来れば、真っ先に『あの宝石が欲しい』だの『新しい別荘を建ててほしい』だのと、騒ぎ立てていたはずだが。……本当に、何も欲しがらないのだな。何か欲しいものはないのか? 君の機嫌が治るなら、大抵のものは用意してやれるが」


その言葉は、私に対する皮肉であり、同時に、私の「真意」を暴こうとする罠だった。

彼にしてみれば、私が突然大人しくなったのは、何か大きな陰謀――例えば、王太子妃の座をより確実にするための、新たな精神的揺さぶりではないかと疑っているのだろう。

普段の私なら、ここで「おねだり」をして見せるのが、悪役令嬢としての正しいロールプレイかもしれない。

しかし――今の私には、そんなお遊びに付き合っている余裕は一秒たりともなかった。

懐にあるアパシーの牙は、今この瞬間も、私の衣服の繊維をじわじわと無に帰しているのだ。猶予はない。

私は、彼の「何か欲しいものはないのか」という問いに、一歩踏み出し、真っ直ぐに彼の青い瞳を見つめ返した。


「……では、お言葉に甘えて、一つだけ、どうしても手に入れたいものがございます」

「ほう。やはりあるのか。ドレスか? それとも南洋の稀少な真珠か?」


アルベルトが「やはりな」というように、自嘲気味な笑みを浮かべる。

私はそれを無視して、はっきりと告げた。


「王宮書庫の特別閲覧室にある、『古代魔力の流動と崩壊』という魔導書を読ませていただきたいのです。あれは王室の許可がなければ閲覧できない禁書。……アルベルト様のご手配があれば、私でも拝読できるのではないかしら、と」


「……は?」


アルベルトの言葉が止まった。

浮かべていた皮肉な笑みは瞬時に凍りつき、その青い瞳が、今度こそ完全に驚愕で丸くなった。


「『古代魔力の流動と崩壊』……? あれは、古代ドワーフ語と、失われた数式で書かれた、一国の魔導師長ですら解読に何年も要するような極めて難解な古代書だぞ。君が……それを?」

「はい。どうしても、今すぐに読まねばならない理由があるのです。どうか、殿下のお力で、私にあの書庫への立ち入りをお許しいただけないでしょうか」


私の目は、冗談でも、彼をからかうためのものでもない。

本気だった。

風化をどうにかするための、命がけの懇願。

アルベルトは、私のその「必死すぎる眼差し」に圧倒されたように、しばらく言葉を失い、やがて、喉を鳴らして低く呟いた。


「……分かった。それほどまでに言うのなら、手配しよう。ただし、私も同行する。君がその書庫で、何を企んでいるのかを見極めるためにね」

「ありがとうございます、アルベルト様!」


私は、心の底からの安堵とともに、彼の手を握りそうになるのを間一髪で堪えた。

(危ない……! 今の私の手で彼に触れたら、それだけで彼の肌が風化してしまうかもしれないのに!)

私の不自然な「引き」に、アルベルトは再び不審そうな視線を向けたが、私はそれを笑ってごまかすしかなかった。


数日後。

アルベルトの裏手回しにより、私はついに、王宮の奥深くに存在する「王宮書庫・特別閲覧室」へと足を踏み入れることができた。

重厚な鉄の扉が開かれると、そこには、何百年もの歴史が澱のように沈殿した、静謐な空間が広がっていた。

外光はほとんど入らず、魔法の灯火だけが、うず高く積まれた書棚をぼんやりと照らしている。空気はひんやりとしていて、古い紙と羊皮紙、そしてかすかな魔力の匂いが漂っていた。

二人きり。守衛も、私の護衛であるルードヴィヒも、扉の外で待機させられている。


「さて、ロザリア。ここが君の望んだ場所だ。お目当ての書物は、奥の『禁忌属性・古代魔導』の棚にあるはずだが――」


アルベルトの説明が終わりかけるよりも早く、私はドレスの裾を翻し、早足で書棚の奥へと歩き出した。

今の私には、淑女としての優雅な歩調も、婚約者の前で可愛らしく振る舞う余裕もなかった。

一刻も早く、風化を止める方法を見つけなければならない。

私はうず高くそびえ立つ書棚の間をすり抜け、その鋭い視線で、背表紙に刻まれた古いルーン文字を追った。


「どこ……どこにあるの……」


以前の、誰に対しても高慢で、他人を顎で使っていたロザリアの面影は、そこには微塵もなかった。

乱れる呼吸。焦燥に駆られた、必死な眼差し。

自らの白い指先が、書物の背をなぞる。本を手に取り、中身を高速でめくっては、また次の本へと手を伸ばす。その横顔には、他者を害しようとする陰湿さなどなく、ただ「生きるため」にすべてを投げ打った者の、切羽詰まった真意だけが宿っていた。


アルベルトは、そんな私の後ろ姿を、ただ無言で見つめていた。

彼にとって、ロザリア・アルシュタットという存在は、常に「自分にまとわりつく、我が儘で中身の空っぽな、不快な婚約者」でしかなかった。


───


だが、今、目の前にいる少女はどうだ。

魔法の灯火に照らされた彼女の横顔は、不気味なほどに美しく、そして哀しいほどに真剣だった。

かつて見たことのない、魂の奥底から絞り出されるような、彼女の「本気の輝き」。

そのひたむきな姿に、アルベルトの胸の奥で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。

(私は……本当に、彼女のことを知っていたのだろうか?)

ただの傲慢な娘ではない。

何か、私には決して見せない、巨大な「何か」と、彼女は一人で戦っているのではないか。

アルベルトは、自分でも気づかないうちに、ロザリアという一人の女性に対して、生まれて初めて「強い興味」――いや、それを超えた、抗いがたいときめきを抱き始めていた。


───


「……あったわ!」


私が、書棚の最上段に近い場所に、色褪せた紫色の革で装丁された厚い魔導書を見つけた。背表紙には、古代ドワーフ文字で『古代魔力の流動と崩壊』と刻まれている。

嬉しさのあまり、私は台座に上り、背伸びをしてその本に手を伸ばした。

だが、その本は思ったよりも重く、しかも奥のほうに引っかかっていた。

「くっ……あと、少し……!」

無理に引っ張った瞬間、本の重みでバランスを崩し、私の体が台座からふわりと浮いた。


「あっ――」


落ちる、と思った瞬間。

私の背後から、強い力が伸びてきて、私の腰を、そして背中をしっかりと抱きとめた。

アルベルトだった。

彼は、私が落ちるのを予測していたかのように、咄嗟にその強固な両腕で、私の華奢な体をすっぽりと胸の中に抱きとめていたのだ。


ドクン、と、密着した彼の胸の鼓動が、私の背中に直接伝わってきた。

彼の、温かい体温。

男らしい、爽やかなシトラスの香りが鼻腔をくすぐる。


私の脳裏を支配したのは、甘いロマンスなどでは断じてなかった。

突き刺さるような、純粋な「恐怖」と「パニック」だった。


(触られた……!? アルベルト様が、私に……!?)

(ダメよ! 私は散々、『アパシー・コロッサスの牙』に関わってきたのよ! 私の体に、彼の体温が、彼の肉体がこれほど密着してしまったら……アパシー・コロッサスの牙の影響が、彼に伝染して、彼を灰にしてしまうかもしれない!)

(私に触れたら、彼が消えてしまうかもしれない……!)


その恐怖が、私の脳を完全に白く染め上げた。

私は、全身の血の気が一瞬にして引き、顔面を真っ青にしながら、なりふり構わず、全力で彼の胸を突き飛ばした。


「いやっ……! 離れて!!」


ドゴッ、と、淑女らしからぬ必死の力で突き放されたアルベルトは、数歩後ろにたたらを踏んだ。

私は台座から転がり落ちるようにして床に着地し、自らの胸元を、まるで何か恐ろしい毒でも付着したかのように、両手で強く抱え込んだ。

激しく上下する肩。

恐怖にガタガタと震える唇。

私は、彼から大きく距離を取り、怯えきった目でアルベルトを凝視した。


「ロ、ロザリア……?」


アルベルトは、突き放された衝撃と、私のあまりの変貌ぶりに、完全に呆然としていた。

今までのロザリアなら、抱きとめられた瞬間に、勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼にしがみつき、既成事実でも作るかのように振る舞ったはずなのだ。

それなのに、今の彼女は。

まるで、世界の終わりでも見るかのような、絶望に満ちた目で自分を見ている。


「……触らないで、ください……。私に、深く関わっては……ダメなのです……」


私の声は、震えていた。

それは、彼を嫌っているからではない。

彼を、この恐ろしい「アパシー・コロッサス」の牙から、命がけで守ろうとするための、悲痛な叫びだった。

関われば、死ぬかもしれない。

彼を風化させて灰にしてしまう。その本気の怯えが、私の瞳から、涙となって今にも溢れそうになっていた。


───


「ロザリア……君は、一体何を……」


アルベルトは、差し伸べようとした自らの手を、空中で止めた。

彼の胸の奥に、かつてないほどの激しい衝撃が走っていた。

彼女のあの瞳。

あれは、自分を「嫌悪」して拒絶しているのではない。

自分を「傷つけまい」として、必死に、悲痛な意志を持って自分を遠ざけようとしているのだ。


(なぜだ? なぜ、そこまで怯えている?)

(かつて、あんなにも傲慢で、欲しいものはすべて力ずくで手に入れてきた彼女が……なぜ、これほどの恐怖を、一人で抱え込んでいる?)


アルベルトの中で、ショックは瞬時に、底知れぬ「執着」へと形を変えた。

彼女のあの怯えた瞳の奥にある、真実を知りたい。

彼女が一人で背負っている、その重すぎる闇を、暴き出し、そして――その心の奥底に、触れてみたい。


「……すまない、驚かせたね。もう、無理に触ろうとはしない」


アルベルトは、努めて穏やかな声でそう言いながら、しかし、その青い瞳の奥には、決して彼女を逃がさないという、熱い執着の炎を宿していた。


───


冷たい書庫の中で、落ちた魔導書を拾い上げながら、私たちは、互いに触れられない距離を保ったまま、新しい「運命」の歯車を回し始めていた。

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