第6話 初キス
「おはよう、ノーラン」
「……」
目を覚ますと、ブレンダさんの顔がすぐ目の前にあった。銀色の髪が頬にかかり、赤い瞳が僕をじっと見つめている。寝起きで頭がうまく働かず、僕は数秒ほど彼女の顔を眺めていた。昨日の夜、ブレンダさんが僕の胸に頭を預けて眠ったことを思い出す。そういえば、あのまま朝まで一緒に寝ていたんだ。
「お、おはようございます、ブレンダさん……」
挨拶を返した、その直後だった。
ブレンダさんの顔がゆっくり近づいてきた。何をするつもりなのか理解するよりも早く、柔らかな感触が唇に触れた。
「…………!?」
思考が止まった。
目の前にはブレンダさんの顔がある。彼女の唇が、僕の唇に重なっていた。状況を理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
「い、いま、何を……!?」
慌てて上体を起こそうとしたけれど、ブレンダさんは僕の手をそっと握り、そのまま逃がさないように身を寄せてきた。
気がつけば、彼女は僕の上にまたがるような格好になっていた。
「ブ、ブブブブ、ブレンダさん!?」
声が裏返った。心臓が壊れそうなくらい激しく脈打っている。顔が熱い。たぶん、耳まで真っ赤になっているに違いない。だって、こんなの初めてだ。女の人と同じベッドで眠ったことだって昨日が初めてだったのに、まさか朝起きていきなりキスをされるなんて、想像すらしていなかった。
ブレンダさんは僕の反応を見て、少しだけ目を丸くした。それから、握った手に力を込める。
「嫌だったか? 私も、初めてだったんだが……」
真剣な声だった。からかっているわけでも、ふざけているわけでもない。彼女は本当に、僕の気持ちを確かめようとしているらしい。
「い、嫌じゃないですけど……!」
でも、だからといって、どうしてこんなことになっているんだろう。昨日まで誰にも必要とされていなかった僕が、こんなに綺麗な女性にキスをされている。現実味がなさすぎて、夢を見ているんじゃないかと疑いたくなる。
「そうか」
ブレンダさんは、ほっとしたように頬を緩めた。そして、僕が何かを言う前に、もう一度顔を近づけてきた。
「えっ、ちょっ――」
再び唇が重なった。
「~~~~っ!?」
今度こそ、僕は完全に固まった。目を閉じる余裕もなく、ただ目の前の赤い瞳を見つめることしかできない。やがて彼女が顔を離すと、僕は息をすることさえ忘れていたことに気づいた。慌てて空気を吸い込み、胸を上下させる。
「ブ、ブレンダさん! い、いったいどうしたんですか!?」
「お前の顔を見たら、どうしてもそうしたくなった」
「そ、そんな理由で!?」
「もう一回、今度はノーランからしてほしい……」
僕は、勇気を出して自分からキスをした。
ブレンダさんは満足そうに微笑んでいる。昨日まで、彼女があんなに苦しんでいたことを知っているからこそ、今の笑顔を見ると嬉しくなる。けれど、それとこれとは話が別だ。僕の心臓がもたない。
「と、ところで、体の具合はどうですか?」
とにかく話題を変えようと、僕は必死に尋ねた。ブレンダさんは少し考えるように自分の腕を動かし、それから手を握ったり開いたりした。肩を回し、指を曲げ伸ばしし、身体のあちこちを確かめている。昨夜はあれほど疲れ切っていたのに、今は動作の1つ1つが驚くほど滑らかだった。
「驚くほどいい。傷も痛みも全て消えている」
かつて王国騎士団の副団長を務めていた彼女なら、自分の身体の状態には誰よりも詳しいのだろう。だからこそ、本人が驚いていることが、僕にも不思議だった。
「本当に、どこも痛くないんですか?」
「ああ。昨日まで感じていた痛みが嘘のようだ。身体が軽い。こんなにすっきりと目覚めたのは、いつ以来だろうな」
そう言って、ブレンダさんは自分の胸元に手を当てた。身体の傷だけではない。彼女を苦しめていたものまで、昨夜よりずっと薄れているのかもしれない。僕には何が起きているのか分からない。ただ、彼女が元気になったのなら、それはよかったと思う。
やがてブレンダさんは僕に向き直った。さっきまでの柔らかな表情が引き締まり、彼女はベッドの上で姿勢を正す。そして、まっすぐに僕の目を見つめた。
「ノーラン。改めて、礼を言わせてくれ。お前は私の心まで救ってくれた」
「そんな、大げさですよ。僕はそばにいただけですから」
慌てて首を振った。僕は彼女の傷を治す方法を知っていたわけでも、立派な言葉で励ませたわけでもない。ただ、ひとりで苦しんでいる彼女を見捨てられなかった。それだけだ。僕が特別なことをしたとは思えない。
「そばにいてくれた。それが、どれほどありがたかったか……」
ブレンダさんは静かに言った。その声には、昨夜のような震えはなかった。けれど、言葉を選ぶように少しだけ間を置いてから、彼女は頬を赤らめた。
「私は、お前が好きだ」
「……え?」
僕が? 好き? あまりにも予想外の言葉だったせいで、意味を理解しているはずなのに、頭が受け入れてくれない。彼女は僕の手を握ったまま、こちらを見つめている。
「お前が望むなら、私はどこへでもついていく。剣術しか知らないし、頼りにならないかもしれない。でも、私にできることなら何でも差し出そう。だから……、私をノーランのそばに置いてくれないか」
「ちょ、ちょっと待ってください。頭が追い付かなくて……」
好きと言われただけでも信じられないのに、どこへでもついていくとか、何でも差し出すとか、話が飛躍しすぎている。ブレンダさんは元王国騎士団の副団長だ。剣の腕だって、僕なんかとは比べものにならない。そんな強くて美しい人が、どうして僕のそばにいたいなんて言うんだろう。
ブレンダさんは不思議そうに首を傾げたあと、僕の手を両手で包み込んだ。大きくて、温かい手だった。昨日、彼女の手は恐怖と寒さで震えていた。それなのに、今は僕の手をしっかりと握っている。
「私が最も苦しんでいたときに手を差し伸べてくれた。私を責めず、見返りも求めず、ただそばにいてくれた。そんな人間を、どうして好きにならずにいられる?」
「い、いや、でも……」
「それとも、私では駄目だろうか」
その表情があまりにも切なくて、僕は何も言えなくなった。彼女は不安そうに僕の返事を待っている。王国騎士団の副団長だった人が、今は拒絶されることを恐れる子どものように僕を見つめていた。
「駄目じゃないですけど……。僕なんかで、本当にいいんですか?」
「ノーランがいいんだ」
迷いのない返事だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
パーティーを追い出され、僕は誰からも必要とされない人間だと思っていた。僕には何の価値もない。そう思い知らされて、何もかも失った気がしていた。
それなのに、目の前の女性は僕を必要としてくれている。僕が何かに秀でているからではない。強いからでも、裕福だからでもない。そんな僕を好きだと言ってくれる。それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。もっと気の利いた返事ができればよかったのに、僕の頭には何も浮かばなかった。ブレンダさんはそんな僕を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「礼を言うのは私のほうだと言ってるだろ」
彼女はそう言うと、僕に抱き着いた。
「ブ、ブレンダさん!?」
銀色の髪が揺れた。腕が僕の背中に回され、身体をぎゅっと抱きしめられる。昨夜も同じように抱き着かれたはずなのに、今はまったく違う意味に感じられた。好きだと言われたばかりなのだ。意識するなというほうが無理だった。
僕はどうすればいいのか分からず、宙に浮かせた手をしばらく迷わせた。それから、おそるおそる彼女の背中に手を回す。ブレンダさんは拒むどころか、安心したように僕の頬に頬を寄せる。
「好きだ、ノーラン」
僕はまだ、自分の固有スキルについてよく知らない。昨夜、頭の中に響いた声が何を意味していたのかも、どうしてブレンダさんの傷が消えたのかも分からない。もしかしたら、彼女が僕に好意を抱いてくれたことにも、何か関係があるのかもしれない。
けれど、今は難しいことを考えたくなかった。
「僕も、す、す、す……好きです。ブレンダさん」
「ブレンダでいい」
「ブレンダ……」
ブレンダが笑ってくれた。それだけで、僕は嬉しかった。




