第5話 よしよし
急なことに、僕の心臓が大きく跳ねた。銀色の髪が顎の下に触れ、彼女の体温が服越しに伝わってくる。近い。さっきまでだって十分近かったのに、今はそれどころではない。
「す、少し近くないですか……?」
返事はなかった。ブレンダさんは僕の胸元に顔を寄せたまま、服をそっとつかんでいる。
「……すまない。少しだけ、このままでいさせてくれ」
弱々しい声だった。
僕は何も言えなくなった。彼女が今、どんな気持ちでいるのか、僕には分からない。ただ、また1人に戻ることを恐れているのだろう。そう思うと、無理に離れてもらうことはできなかった。
「……分かりました」
僕はぎこちなくうなずき、彼女の背中に手を添えた。どうすればいいのか分からず、最初は遠慮がちに触れるだけだった。それでも、ブレンダさんが身を縮めることはなかった。むしろ、僕の胸元に頬を寄せ、張り詰めていた体から少しずつ力を抜いていった。
しばらくして、またブレンダさんの寝息が聞こえだした。
すると突然、頭の中に聞き覚えのない声が響いた。
【固有スキル『心の居場所』が発動しました】
「……え?」
固有スキル? 今、何か聞こえたような……。
【傷ついた女性に心の安らぎを与え、彼女が本来持つ力を解放します。対象との心のつながりが深いほど、その効果は高まります】
今度は、はっきり聞こえた。
「心のつながり……?」
僕は小さくつぶやき、自分の手を見つめた。冒険者として活動していた頃、僕には戦闘に役立つ才能がないと言われ続けてきた。剣も魔法も人並み以下で、仲間の足を引っ張らないようにするので精いっぱいだった。自分に特別な力があるなんて、考えたこともなかった。
それなのに、今の声は確かに僕の中から聞こえてきた。
「……『心の居場所』なんてスキル、聞いたことないぞ。一体、何なんだ?」
尋ねても、返事はない。説明はそれきり途切れてしまった。
困惑していると、胸元から小さな声が聞こえた。
「……ノーラン」
「は、はい!?」
思わず返事をすると、ブレンダさんが顔を上げた。目元はまだ赤く、頬には涙の跡が残っている。それでも、先ほどまでの張り詰めた表情は少し和らいでいた。
「……よしよし、してくれないか」
「…………え?」
何を言われたのか分からなかった。
「よ、よしよしって……頭を撫でればいいんですか?」
「うん」
ブレンダさんは真剣な顔でうなずいた。
元騎士団副団長。数々の戦場を生き抜き、屈強な騎士たちを率いていた女性。その人が今、僕に頭を撫でてほしいと言っている。
どうしよう。
断る理由はない。ないのだけれど、どうにも気恥ずかしかった。僕は恐る恐る手を持ち上げ、彼女の銀色の髪に触れた。さらりとした髪が指の間をすり抜ける。どこかぎこちない手つきで、頭をゆっくり撫でてみた。
「こ、こうですか?」
「うん……」
彼女は目を閉じた。
「……もう少し、続けてくれないか」
「は、はい」
僕は言われた通り、彼女の頭を撫で続けた。何か特別なことをしているわけではない。ただ、安心してもらえるように、できるだけ優しく手を動かす。それくらいしか、僕にはできなかった。
「……温かい」
ブレンダさんがぽつりとつぶやいた。
「そ、そうですか?」
「ああ。誰かにこうしてもらうのは、いつ以来だろうな……」
彼女の声から、少しずつ力が抜けていく。逆に、僕を抱きしめる腕の力が強くなった。
「騎士団にいた頃は、弱いところを見せてはいけないと思っていた。副団長なのだから、皆を支えなければならない。自分が苦しんでいる姿を見せれば、部下たちを不安にさせてしまうから」
僕は黙って聞いていた。彼女が抱えてきたものを、簡単に理解したつもりにはなれない。それでも、誰にも弱音を吐けずにいたことは伝わってきた。
「だから……今くらいは、少し甘えてもいいだろうか」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「もちろんです。僕でよければ、いくらでも」
答えると、ブレンダさんは足まで僕に絡めてきた。
こ、こんな状況が許されるのだろうか。強くて美しい女性騎士に全身で絡みつかれ、頭をヨシヨシしている。
「ありがとう、ノーラン」
その声を聞いたとき、僕の手のひらが淡く光った。
「……えっ?」
指先から金色の光がこぼれ、ブレンダさんの体を柔らかく包み込んでいく。驚いて手を止めかけたけれど、彼女が不安そうに僕の服をつかんだため、慌てて動きを続けた。
光は彼女の銀色の髪を照らし、頬に残っていた涙の跡を優しく包んだ。すると、彼女の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。強張っていた肩から力が抜け、僕の胸元に預けられた体がゆっくりと沈んだ。
「ブレンダさん……?」
返事はない。
そっと顔をのぞき込む。彼女は目を閉じていた。安心しきったように僕の胸元へ額を寄せていた。規則正しい呼吸が聞こえた。もう悪夢にうなされてはいないようだった。
僕は胸をなで下ろした。
「……よかった」
それ以外の言葉が出てこなかった。
固有スキルが何なのか、どうして金色の光が現れたのか、まだ分からないことだらけだった。それでも、ブレンダさんが少しでも安心して眠れたのなら、それでよかった。僕の力が役に立ったのなら何よりだ。
そんなことを考えていると、胸元から再び小さな声が聞こえた。
「……ノーラン」
寝言だった。
ブレンダさんは僕の胸の中で、安心しきった顔をして眠っている。まるで、ようやく帰る場所を見つけたかのように。
僕は彼女の頭に手を置いたまま、しばらく動かずにいた。
今日、僕は仲間たちから役立たずだと罵られ、帰る場所もお金も失った。明日からどうやって生きていけばいいのか、まだ何も決まっていない。
それなのに、今は不思議と、先ほどまでのような寂しさを感じなかった。
僕のそばで眠っている人がいる。僕を頼ってくれる人がいる。それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「……おやすみなさい、ブレンダさん」
僕は小さな声でそう告げて、目をつぶった。
そして翌朝。
「おはよう、ノーラン」
目を覚ますと、ブレンダさんの顔がすぐ目の前にあった。




