第20話 どうか、私を見捨てないで
●ブレンダ視点
夜、ノーランはいつものように私を抱きしめてくれた。私は彼の胸に顔を寄せながら、昼間のことを何度も思い返していた。
「今日は疲れましたか?」
「……少しだけ」
「ゆっくり休んでくださいね。何かあったら、いつでも僕を頼っていいんですから」
彼の手が私の髪をなでた。嬉しかった。もっと抱きしめてほしかった。このまま離さないでほしかった。
けれど、彼の優しさに甘えるほど、自分が彼に何も返せていないことを思い知らされる。私は彼を守れない。彼の役にも立てない。それどころか、私のせいで彼が傷つくことさえある。
それなのに、彼にそばにいてほしいと願っている。
私は、どこまで彼に甘えるつもりなのだろう。
やがて、ノーランの呼吸がゆっくりと落ち着いていった。彼は眠ってしまったらしい。私は腕の中から顔を上げ、彼の寝顔を見つめた。
穏やかな顔だった。私を信じて、安心して眠っている。そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……ノーラン」
小さく名前を呼んでも、返事はない。
彼はもう十分すぎるほど私に与えてくれている。これ以上何かを求めるのは、あまりにも身勝手なことに思えた。
「……ごめんなさい」
涙が頬を伝った。
私は彼の胸に顔を押しつけ、声を押し殺した。起こしてはいけない。心配をかけてはいけない。彼が安心して眠っている時間くらい、穏やかなままでいてほしかった。
「私は……、何も返してやれない」
愛する人を支えることさえできない。
ノーランは私を救ってくれた。私のために時間を作り、手を握り、抱きしめてくれる。私が何もできなくても、彼は私を必要としてくれている。
それなのに私は、いつか彼が私を必要としなくなる日を恐れている。
彼がもっと立派になったら。もっと多くの人に認められたら。私よりも彼を支えられる女性が現れたら。
そのとき、彼は私を選んでくれるのだろうか。
考えたくなかった。けれど、考えずにはいられなかった。
「お願い……、嫌いにならないで……」
眠っている彼に、届かない願いをこぼす。
「私を……捨てないで……」
声が震えた。涙が止まらなかった。
翌朝、結局眠れなかった私は、隣で眠っているノーランの顔をしばらく見つめていた。
朝になれば、またいつもの自分に戻らなければならない。
私はそっとベッドを抜け出した。ノーランを起こさないように身支度を整え、部屋を出る。廊下の窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を照らしていた。
何も変わっていない。この屋敷も、私の居場所も、ノーランとの関係も、昨日までと同じはずだった。それなのに、私の心だけが、どこにも落ち着けずにいた。
朝食の席で、ノーランはいつもどおり私の隣に座った。私の好きな料理を取り分けてくれ、何気ない話をしてくれる。彼は昨日の怪我についても、もう何も気にしていないようだった。
「ブレンダ、今日は来客があるんです。騎士団の団長が、挨拶に来てくださるそうで」
その言葉を聞いた瞬間、私は手を止めた。
騎士団長ユリウス・ベルンハルト。
私が騎士団にいたころ、最も近くで働いていた人物。そして、私が団長の座を目指すようになってから、明らかに私を警戒するようになった人物でもあった。
私は実力で地位を築いてきた。女性だからという理由で軽く扱われても、剣の腕と任務の成果で黙らせてきた。いつか団長になり、騎士団をよりよい組織に変えたいと本気で考えていた。
しかし、ユリウスにとって、私は自分の地位を脅かす存在でしかなかった。
私が功績を上げるたび、彼の態度は少しずつ変わっていった。表向きは評価していても、大きな任務から外されたり、私の意見が採用されなかったりすることが増えた。そして、あの魔物討伐で仲間を撤退させたとき、彼は私に責任を負わせた。
命令を下したのはユリウス団長だった。もちろん私も同意した。それでも、仲間を置いて撤退した責任は私にあるとされた。私は騎士団を追われた。
「……そうか」
「辛い過去を思い出させてすみません。どうしても断れなかったみたいで。団長とは僕1人で会いますから、気にしないでください」
ノーランはそう言って微笑んだ。
貴族になれば断れない付き合いというものがある。ユリウスは貴族。私はノーランに団長との関係について話していない。私とユリウスがどのような関係だったのか、すべてを知っているわけではない。それでもノーランは、私に謝ってくれてさえいる。
「……ああ。分かった。気を遣わせてむしろすまない」
私は笑顔を作った。
「……まだこの屋敷にいたのか」
背後の廊下から聞こえた声に、私は思わず肩を震わせた。振り返った先に立っていたのは、かつて私が仕えていた騎士団の団長ユリウス・ベルンハルトだった。
「団長……。どうして、ここに?」
「ノーラン殿に挨拶に来たのだが、主人が出迎える前に君と顔を合わせるとはな」
ユリウスは私の問いに答えながら、屋敷の中を見回した。まるで自分の家にでもいるかのような態度だった。案内を待つこともなく入り込んできたらしい。
「それにしても、ずいぶんと立派な屋敷だ。S級冒険者になり、男爵の地位まで手に入れたのだから当然か。君も、さぞ満足していることだろう」
「……私は、ここに住まわせてもらっているだけです」
「住まわせてもらっている、か」
ユリウスは口元に薄い笑みを浮かべた。
「ずいぶんと聞こえのいい言い方をするものだな。要するに、ノーラン殿の厚意にすがっているということだろう?」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「君は騎士団を追われた身だ。実績も地位も失い、今では剣を振るう機会すらないのではないか? そんな君が、英雄として名を上げたノーラン殿の隣に立っている。周囲からどう見られているか、考えたことはあるかね?」
「……」
「君は昔から、実力さえあれば何でも許されると思っている節があった。上官への態度も、周囲との協調性も、まるでなっていなかったからな。騎士団を追われたのも、結局は君自身に問題があったからではないのか?」
言い返したかった。あの任務で、撤退を命じたのはユリウス自身だ。私は命令に従い、生き残った。その結果、仲間を見捨てた責任を押しつけられ、騎士団を追われた。
けれど、私は何も言えなかった。
ここはノーランの屋敷だ。彼に迷惑をかけたくない。過去のことで騒ぎを起こし、彼の立場を悪くするようなことだけは避けたかった。
「……ノーランを呼んできますので、お待ちください」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
ユリウスは満足そうに目を細めた。
「君が本当にノーラン殿を大切に思っているのなら、彼の隣にいるべき人間が誰なのか、少しは考えるべきだろう」
その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
私は、ノーランの隣にいるべき人間なのだろうか。
彼は私を救ってくれた。傷ついた私を抱きしめ、何度も大切だと言ってくれた。私が何もできなくても、そばにいていいのだと教えてくれた。
それでも、彼の隣にいる自分を想像すると、どうしても不安が消えなかった。
私には、彼に誇れるものが何もない。
「あれ? お客様ですか?」
不意に、明るい声が響いた。




